霞 ― 奥州二本松藩

幕末の奥州二本松藩、二本松少年隊についてゆるーく調べて纏めるブログです。はじめてお越しの方は「はじめに」をご覧ください。

職制4 山奉行



   職制4 山奉行




 はい、山奉行!!


 職制カテゴリの記事、家老郡代城代ときて、なんでいきなり山奉行なんだよ……とお思いの方も多いでしょうが、まあまあそこはそれ。

 気の向いたところから更新する――、それがここの管理人クオリティです。





 藩政末期、山奉行の職に就いていたのは、岡山持(130石)、南部権之丞(100石)。
 (山奉行の定員は通常2名で、家老の発令によって任命されます)



 岡山持さんは、二本松少年隊の一人として名の残る「岡山篤次郎」のお父さんです。


 この山奉行というのは、まんま山林を管轄するお役人さんのこと。


 藩有林の管理はもちろん、私有林伐採時の許可検分、私有林からの上納木材の管理などなど。
 読んで字の通り、山林・木材に関することがお役目だよ。




 藩有林には、内山(保安林)や争論山(領民同士で争論となって、どちらにも確証がないためどっちつかずになり、結局上納された山)など、いくつか種類がありました。

 そんな藩有林のすべてを指す、「御林」という言葉があったそうです。


 山奉行さんの下にはさらに「山守」という職があって、御林(藩有林)が存在する村ごとに1~2名配置されていたといいます。



 それ以外には、「野火廻り」「山番」といった臨時職がありましたが、これは足軽(藩卒)が職務に当たったそう。臨時の見回りや見張りをしてたみたいだよ。


 さらに下には日雇いの木こり(昔は杣《そま》と言った)がいて、実際に御林の手入れや伐採を行ったのは、こうした日雇人足だったわけだね。







 さて、因みにこんな話も。



 この頃二本松藩では、私有林の所有者は、山の立木を伐採する時には藩に申し出て許可を貰わないといけませんでした。

 自分の山でも、勝手に木を切っちゃいけませんよーってことだったんですね。

 なぜなら、私有林を伐採したら、山林所有者は伐採した木材のうち良質な約半分の木材を藩に納めること! っていう決まりがあったんですね。

 藩から伐採の許可が出ると、山奉行が雇い入れた木こりさんを引き連れて、私有林に出向くんです。

 が。

 この時、当時らしさというか、そういうご時世だったというか、暗黙の了解みたいなね、そういうのはまあ、やっぱりあったらしいです。

 私有林伐採の時、所有者は山奉行をおもてなしするわけだ。

 お座敷で酒食のおもてなしをね。

 ついでにちょっとお土産なんかも渡しちゃったりして。

 んで、それから伐採した木材を検分し始める。






山奉行「おっまえなぁー、もー、普段どんな手入れしてんだよ~。コレじゃ上納木材としてはイマイチなんだよなぁー(・∀・)」


所有者「ヘッヘェ( へωへ`*) これは申し訳ねー」


山奉行「んもー、しょうがねえなぁ。今回は上納しなくていいよ! だってこんなの使えねーもん☆ 次はちゃんと入念に手入れしといてよねっ(ゝω・)☆」


所有者「( へωへ`*)フヘヘ、しかと承りィ!」






 本当なら伐採したうちの半分を藩に持ってかれちゃうところを、暗黙の了解で非課税に……!!




 恐るべし、接待の威力。







 現代ではとても考えらんないよね! 贈収賄だ何だと騒がれること間違いないよね!\(^o^)/


 と言ってもそこはまあ、時代が時代ですから。

 昔はこんなの日常茶飯事だったっぽいですよ。

 これに限らず、息子が成人して番入する時なんかも、親は息子の直属の上司になる人に挨拶として幾らか心付けを渡すのが普通だったりもしたわけだし。……ね(;´∀`)






 あとちょっと補足すると、山林関係のお役人さんには「山同心」なんていうのもあるんだけど、職務内容的には基本的に山奉行と同じ。

 但し、山同心の場合は定員8名で、郡代が指名する職だよっていう違いはあるけれど。

 組織図的に位置が異なるだけで、山奉行と山同心ていうのはさほど大きな違いはなかったようです(●´ω`●)





【職制4・山奉行】

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丹羽一学


   丹羽 一学



 番頭家老
 奥羽列藩同盟調印者。

 諱:富毅
 幼名:主税
 家禄:600石
 生:文政六年(享年より逆算)
 没:慶応四年七月二十九日(城内/自尽)
 享年:四十六歳
 墓所:二本松市大隣寺
 法号:了性院義運惠功居士



     ***



 戊辰戦争時の二本松藩家老

 丹羽新十郎と共に白石会議に列席し、奥羽越列藩同盟に調印した人物。


 専ら主戦を論じた家老さんです。


 「家老」と言えば丹羽一学ってくらいに、The・家老って感じの人。(そうか?)



 ……なんですが。


 一学さまが家老職に進んだのは、慶応四年の閏四月に白石で奥羽列藩会議が開かれた頃で、それまでは番頭を務めておいでだったんです。(丹羽一学家は代々番頭から執政に進むというのが慣例だった模様)

 一学さまが家老だった期間は、実はほんの数ヶ月のことだったんだね!


 他にも座上の丹波さまを始め、家老職は何人もいましたが、家老としての席次は一学さまが最も下です。


 だけど一学さまの発言力は抜群。

 当時の家老たちの中では一番脂の乗った年齢であったこと、藩主の流れを汲む一族であることなどなど、周囲を抑えて主張を通せる要素は色々と持ち合わせていたんだろうね。





 丹羽一学家は、遡ると丹羽家初代当主丹羽長秀公(二本松藩丹羽家の祖)の弟・秀重(通称は九兵衛)が祖となります。

 秀重さんには一男一女ありましたが、娘は他家へ嫁ぎ、嫡男が一学を名乗って家を継いだものの、若くして亡くなってしまいました。

 そのため、丹羽家二代当主長重公の弟・長俊の嫡男・長清(通称は五郎兵衛)が丹羽一学家を継ぐことになりました。


 簡単に図にすると、こんな感じ。


一学系図
【家系略図 ※クリックで拡大画像表示】



 丹羽一学家の祖である秀重もまた、甥っ子の光重と一緒に大阪の役に出、壮絶な戦死を遂げています。




     ***




 ところで、この一学さまの性格について、「剛毅果敢、その忠義は天性からのもの」と藩史にはあります。


 一学さまをはじめ、二本松藩はこういう特徴が書き残されてる人が相当いるんだよね。



 主君への「忠」はもう大前提。
 家中は当たり前に「忠」を重んじていましたし、それは大人も子どもも同じでした。



 二本松藩では、落城の二日前(三日前という説も有)になって藩の成人年齢を15歳(入れ年で13歳)以上にまで引き下げ、出陣許可が出されることになります。
 この成人年齢引き下げのために、後の二本松少年隊の子たちが出陣するわけですね。



 最終的な成人年齢引き下げには、

 ・敵はもう城下の目前まで迫ってるわ、

 ・なんかお隣の三春藩が寝返った上に西軍の嚮導役んなって向かってくるわ、

 ・しかも白河に派遣してた主力部隊も退路を塞がれて容易に帰ってこれないわ、

 ・各国境に配置してた各隊も間道からぽろぽろ帰って来る程度だわ……

 という


 城下大ピンチ!


 な状況の中、とにかく帰って来た藩兵と、城内に残ってた部隊で何とか守備を固めておかなきゃいけなかった、という背景があります。




 でも実はね。

 戦火が近付くにつれて、城内の雰囲気は降伏に傾きかけていたんです。

 孤立無援の二本松城に、大垣藩から降伏勧告の使者がやって来たりして(藩主長国公の奥方、久子夫人が大垣藩の出身だからね)。


 これにはさすがの二本松城内も


「同盟にはもう充分に義理を果たしたわけだし、これ以上戦うのは無謀だろ。徒に皆を死なせるよりは、降伏と参ろうではないか!」


 という論が出始め、そこに纏まりかけます。



 いや、一旦は纏まったと言っても過言ではなくってね。

 実際、この使者の来訪の後、城下の各要衝に配置された藩兵に対し、撤退命令が出されたんです。



 そんな城内の雰囲気を主戦に一気に盛り返しちゃったのが、丹羽一学。と、丹羽新十郎



「降伏しよーが降伏しまいが、どっちにしろ我が藩は終わりじゃ!! 帰順降伏なんぞありえん、とことん信念貫いて徹底抗戦してやろうじゃねぇか!」



 という具合で。(セリフがすいません)


 彼らの言葉一つで、二本松藩の運命は決定したと言っても過言ではないでしょう。





 こうして、二本松藩は奥羽越列藩同盟の中で唯一、城を枕に戦い抜きました。


 戦というものを美化して言う訳ではないですが、彼らの信念の強さ、忠義の心、それらはやはり、讃えられるべきものと思います。



 敵の手に落ちるならばと、二本松藩側が自ら火を掛けた、霞ヶ城。


 城が燃え盛る中、一学さまはその中腹にある土蔵(武器蔵)奉行役宅で、郡代兼用人・丹羽新十郎、小城代・服部久左衛門さんと共に割腹自尽されています。

 (介錯は藩士・大島成渡さん。一学様たちの自尽後は成渡さんがこの役宅に火を放ち、ご遺体ごと焼いています。)


 強硬に主戦を論じた者として、戦争の責任を取ったんですね。



DSC00142
【土蔵奉行役宅跡】
※現在は三人の自尽の地として碑が建てられています。


 丹羽一学が詠んだ辞世の句、

「風に散る、露の我が身はいとはねど、心にかかる、君が行く末」

 これは今日でも知る人は多いのではないかと。




 戦後は当然、西軍側から戦争責任を追求された二本松藩ですが、その際、謀反首謀者として丹羽一学、丹羽新十郎両名の名前が出されます。

 当然、両名とも家名は断絶。(しかし明治十六年になると、丹羽一学・丹羽新十郎の両家名は復興を許されました)



 二本松藩の最期を潔く引き受けたとして、今も高く評価され続けている方です。

 二本松藩の壮烈な最期を飾った丹羽一学という人物は、今でも色褪せることなく、伝え続けられています。


 享年46歳。

 現在は市内大隣寺の墓所に、奥様のマチ子さんと一緒に眠っていらっしゃいます。


丹羽一学家02 一学マチ夫妻墓所
【丹羽一学・マチ子夫妻墓所】





【丹羽一学・終】

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     ***





 さて、ちょっとこのあと私見入るよー。いつもの余談ではなく、あくまで私見なので、さらりと流して頂いてOKですw


 この先は、しょうがねえなー読んでやるよ! という方だけ「続き」のリンクからどうぞー。

 

続きを読む

佐久間織部正と龍泉寺の翔龍桜


     佐久間織部正と龍泉寺の翔龍桜



 佐久間織部正

 諱:正勝
 生国:九州秋月藩
 生:寛文九年(享年より逆算)
 没:元禄四年一月二日
 享年:二十三歳
 墓所:二本松市龍泉寺
 法号:大通院殿智厳浄勝大居士



     ***



 奥州二本松藩、龍泉寺の「翔龍桜」を御存じでありましょうか。



 それほど有名な桜ではないかもしれません。

 その逸話も、それほど知られているわけではないかもしれません。



 だけど、管理人は織部正も翔龍桜も大好きです。

 日頃は主に幕末期の人物を紹介してますが、織部正のその生涯の儚さには、いつも胸の切なくなる思いがいたします。




 …………ん? 口調が柄にもなくしっとりしてるって?


 そりゃあ、たまにはね!!!

 管理人も大人の女性としての自覚がないわけではありませんもの(´∀`*)ウフフ(八割方冗談です)





 さて、話は戻りますが。


 織部正は九州は秋月藩の生まれです。

 その後、養子縁組により常州は筑波藩へと移り、一万石の領主となりました。




 そうして、貞享5年5月14日。

 織部正は奥小姓を仰せつけられたわけですが、その月の18日、御役御免の上、領地を取り上げられてしまいます。




 寺院物語中にはその理由を「将軍の旨に逆らうことあり」とだけ書いています。


 が。


 龍泉寺によれば、その理由は「違背の儀、奥女中とのかなわぬ恋ゆえ」なのだとか。




 このために、織部正は職を解かれ、領地まで没収され、あげくは異郷の二本松藩丹羽家御預けの処分とされてしまいました。


 龍泉寺の翔龍桜は、織部正が丹羽家御預けとなったその頃に植樹された桜なのだそうです。



 織部正の二本松下向時には、御用人が二名付き添い、更に二本松藩士・松田喜左衛門が道中の警護をしたといいます。

 二本松到着後、織部正の監守役は二本松藩士・佐々吉兵衛(吉兵衛さんは佐々成政の一族だよー)が務めることとなりました。


 しかし二本松へ移った織部正は間もなく病を患い、二十三歳という若さでこの世を去りました。


 織部正は龍泉寺に埋葬され、今も美しい翔龍桜に包まれるようにして眠っています。





 生国を遠く離れた二本松の地で、織部正はどんな日々を過ごしたのでしょう。

 叶わなかった恋の相手を想いながら、その短い生涯を閉じたのでしょうか……。

 桜が美しければ美しいほど、織部正の哀しく切ない想いを象徴しているかのようで、胸が苦しくなります。




 織部正の死から300年以上が経つ今、翔龍桜は、織部正の墓を守り抱くかのように、毎年美しい花を咲かせています。


shoryusakura2

【龍泉寺の翔龍桜と佐久間織部正墓所】




     ***




 っていうわけで、管理人、こういう切ない物語に弱いので、翔龍桜も織部正もとても好きなんです。

 そのわりにまともな写真がなくて申し訳ない。

 写真中央が織部正さんの墓所だよ!





 しかし、よく考えると織部正さん、14日に奥小姓を仰せつけられて、18日にはクビになってるってぇことだよね……?



 一体何したんです?


 え、そんなすぐバレるものなの?



 とまあ、そんな解せぬところもあるにはありますが(もし詳しいこと知ってる人いたら教えてけろ)、管理人にとっては全面的にとても愛おしく感じられる桜です。

(※しかし織部正さんにも当時既に奥方いたみたいだけどね)
(だが構うものか!'`,、('∀`) '`,、)






 因みに余談とはなりますが。

 前述の中に出てきた「佐々吉兵衛」さん。

 佐々成政の一族とだけ注釈入れてましたが、折角なので少しばかり補足いたしませう。


 佐々家が丹羽家に仕官したのは、吉兵衛の祖父「佐々太右衛門」の代でした。

 その頃の丹羽家当主は長重公(丹羽長秀の子)。

 太右衛門は長重公小松在城の時に仕官して、足軽頭600石。



 その後、長重公は寛永9年に白河移封となりますが、太右衛門の子「吉右衛門」もそれに従い、改めて新知200石を受けています。

 その吉右衛門の子が、後に織部正の監守となった「吉兵衛」さんなんですね。


 とはいえ、この佐々家、幕末までは続いておりませぬ。

 つか、この吉兵衛さんが何かやらかしたとかで、この代で永の御暇となったらしいです。



 織部正といい、吉兵衛といい、詳細が伝わっていないのが何とももどかしい(´・ω・`)


 ……織部正さんの話は、なんとなく逸話だけで終わっときゃあ良かったかもしれないwと、こんながっつり余談打った後で思いました。


 余談って書けば書くほど纏まらなくなるもんですね!




【佐久間織部正と龍泉寺の翔龍桜】

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大島七郎



   大島 七郎



 大島成渡(年賦取立役/90石)の弟。
 大島雲平の末子。

 後の安保七郎。



 生:安政三年(年齢より逆算)
 没:明治三十年一月十九日
 享年:四十二歳
 墓所:大隣寺
 法号:智洋院本然了義居士

 ※備考:兄=成渡(義直)、祐之助(義質/工名は紫玉)、原久太夫など



     ***



 大島七郎、戊辰当時は13歳でした。


 年賦取立役90石取りの大島成渡義直(当時36歳)の末弟で、父親は大島雲平義正(当時56歳)。


 お父さんの雲平さんは八男あったということなので、末子である七郎は八男なんですね。
 名前の感じから「あれ、七男か?」とつい思っちゃうんだけどねぇ。



 この七郎も木村銃太郎の門下生で、二本松城下戦の時には若先生に引率されて大壇口へ出陣。

 戦じゃ戦じゃぁぁぁあああ! っと、七郎もきっと他の少年たちと同様にはしゃいでいたんでしょうなー。



 結局、大壇口の銃太郎隊は、引率していた木村銃太郎二階堂衛守の二人を相次いで失い、大壇口退却後はみんな散り散りになっていってしまいます。

 大壇口戦の経緯は既に過去の少年隊士の紹介で触れたのですっ飛ばすよ!(^ω^ ≡ ^ω^)




 大壇口退却後、七郎は御両社山(二本松神社)の陣へ向かい、そこで再び戦闘に参加しています。

 御両社山にはこの時、2番組の日野大内蔵隊や、大谷志摩率いる遊撃隊が布陣してたんですね。(日野隊には銃太郎の父・木村貫治もいたよ)

 七郎は幸いにも味方の大人たちと合流出来たわけです。

 で、ここでも戦闘に参加してるってぇことは、たぶん七郎は元気だったんでしょうな。



 この日の戦で、七郎は右手を負傷しています。

 が、どこで右手を負傷したのかは不明。

 けど、七郎はその後生涯右手が不自由であったということなので、相当重傷だったんでしょう。

 とすれば、大壇口で負傷したと考えるよりは、御両社山での戦闘で負ったと考える方が自然なのかな~(´ω`)?



     ***


 戦後、七郎は旧二本松藩士・安保忠左衛門家を継ぐことになります。

 戦後は駒場農学校(駒場農学校とは⇒Yahoo百科事典)を卒業。

 その後、青田原開墾事業にも参加しました。

 ※青田原は二本松藩が軍事調練なんかを行っていた土地で、今の本宮市にあるよ(*´∇`*)




 明治13年7月には、七郎は梅原親固(旧藩士)と連盟で官有地を拝借して、同年11月には松田正斉(七郎同様に元二本松少年隊士で、元の名は鹿野寅之助)などと一緒に入植しています。

 二本松の旧士族は、戦後みんなそれぞれに教員になったり行政職に就いたりしてますが、こうした土地開墾事業に参加した人も結構多くいたんですね。

 しかし開墾事業は困窮を極め、生活も思うように成り立たず、参加した殆どの人が早々に撤退しています。


 さらに後に、福島県農事試験場(後の農業試験場。農業試験場も現在は福島県農業総合センターになってます。 ※リンクはセンターHP)の技手になりました。




 そして明治30年1月19日。

 戦後の約30年、苦難を乗り越えて生きた七郎もまた、42歳の若さで世を去りました。

 七郎は大隣寺安保家の墓所に眠っています。




【大島七郎 終】

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岩本清次郎


   岩本 清次郎



 岩本名左衛門(代官/65石)の二男。
 上ノ内の二銃士。


 諱:正冠
 家紋:丸に九枚笹
 生:嘉永五年(年齢より逆算)
 没:慶応四年七月二十七日(糠沢上ノ内戦死)
 享年:十七歳
 墓所:蓮華寺
 法号:義光院仁山日礼居士
 ※備考:兄=岩本正勝、義姉(正勝妻)=たに



     ***



 糠沢組代官・岩本名左衛門(諱を正直)さんの次男坊、岩本清次郎。
 戊辰当時17歳です。



 清次郎自身は銃太郎の門下生ではなくて、銃太郎の父・貫治の門下生。

 だけど、貫治の門下生も銃太郎の指導を受けることがあったようなので、一時的にとは言え、清次郎も銃太郎から砲術を学んだんだろうね!(*´∇`*)



 戊辰戦争の時には、二本松藩三番組・樽井弥五左衛門隊に配属されて、糠沢村の上ノ内で戦闘に参加しています。

 二本松少年隊の一人とは言っても、清次郎の年齢は17歳。

 番入り前の子どもと言っても、年長組なんだよね。


 藩の成人年齢を、通常20歳(入れ年で18歳)のところを徐々に引き下げていった、というのは二本松少年隊の記事中にも書きました。

 清次郎に出陣命令が下ったのは、城下戦で大壇口に布陣する銃太郎の門下生たちよりも、もっと早い時期だったわけだ。

 清次郎たち年長組が出陣するのを見て、年少組の子たちが「俺らも戦に出たーいぃぃぃい!」って出陣嘆願するような場面もあったわけなんだね。



     ***


 さて、清次郎が属する樽井隊が本宮口へ出陣したのは、6月29日のこと。


 この出陣の時、実は清次郎は微熱があった、という談もあり、どうやら従軍中も清次郎の体調はあまり芳しくなかったようです。
(樽井隊長が戦後の手記に、清次郎の不調についてちらっと書き残してるよ!)




 そう……知ってる人は知っている。

 後に上ノ内の二銃士と呼ばれるうちの一人が、この岩本清次郎なんです。

(二銃士のもう一人は、やっぱり当時17歳の中村久次郎)






 樽井隊は本宮口から上ノ内に陣を移し、7月27日の未明(早朝6時説も)に薩摩藩川村与十郎隊による奇襲を受けます。

 番所や斥候からは川村隊の動きは報告されなかったようで、完全に不意打ちだった模様。

 そこに加えて未明時分のことだったもんで、樽井隊の人員はみんな慌てて応戦。


 暫く激しい戦闘が繰り広げられますが、出鼻を挫かれた上に、敵は最新式の武器を所有し、調練の行き届いた軍隊。

 樽井隊はほぼ壊滅状態、というところまで追いつめられてしまいます。



 次々と斃れていく二本松藩兵に、もはや撃退は不可と判断した樽井隊は「各々引き揚げて、城下に帰り着いた者は光現寺に集合」と指示。


 敵弾を逃れた僅かな藩兵たちは城下へ向けて散り散りに引き揚げていくこととなります。




 しかし。



 清次郎は戦線を離れることなく、久次郎と共に最後の最後まで銃を撃ち続けました。


※同じく樽井隊に鼓手として従軍していた武藤定助(当時16歳)が、二人の奮戦の様子を語り残しています。)




 樽井弥五左衛門麾下の多くがこの上ノ内で戦死。

 結局、城下光現寺に集合した生存者は、隊130名中、わずかに17名



 大人たちが次々と斃されていく中、未だ17歳の清次郎と久次郎は、互いに励まし合いながら撃ち続けたのかもしれないですね。

 その命が失われるまで、果敢に銃撃を続けた清次郎と久次郎の胸中には、一体どんな想いが秘められていたのでしょうか……。


 ※同じく樽井隊所属であった田中三治(当時16歳)もこの戦で戦死しています。





 上ノ内の古戦場には慰霊塔が立てられ、戦死者の霊は今もなお、手厚く祀られています。

上ノ内古戦場軍卒合葬塔

上ノ内古戦場戊辰役戦没者英霊塔

【糠沢・上ノ内古戦場 合葬塔ならびに群霊塔】


 合葬塔・群霊塔のある古戦場は私有地です。
 お参りされる方は、黙って敷地に立ち入ったりせず、敷地を所有・管理されている御宅への敬意と感謝を忘れずに、失礼のないよう充分にご配慮くださるようお願いいたします。




 清次郎は城下蓮華寺に、久次郎は城下台運寺に埋葬され、静かに眠りについています。

岩本清次郎墓所

【岩本清次郎墓所】



     ***


 さて。


 恒例の余談ですけどね!(だが恒例ってほどでもない)(どっちだよ)



 清次郎にはお兄ちゃんがいましてね。

 清次郎の兄・正勝さんは、木村銃太郎の妹である「たに」ちゃんをお嫁にもらっています。

 戊辰当時、正勝さん24歳、たにちゃん19歳。

 開戦頃にはたにちゃんはお産のために木村家へ里帰りしていたんだよね。この話は割と知ってる人は多いかもしれないけども。



 正勝さんは明治以後も生存していらっさいます。

 戊辰の頃に正勝・たに夫妻の子として生まれたであろう長男(軍治さん)は、若くして亡くなられたようです。
 (と言っても、よくよく調べてみたら軍治さんの享年は41歳でした。明治41年没。)
 (寺院物語の中には軍治さんについて「早世」と書かれていましたが、確かに若くして亡くなられてはいるものの、軍治さんには奥様もお子様もいらっしゃいます。しかし軍治さんの子も後に24歳の若さで没しているので、寺院物語中の「早世」という記述は、この辺が混ざってしまったものと思われます)


 二男の繁さんは医学の道を志して軍医になったそうで、家を継ぎ、後に二本松で開業なさりました。

 清次郎の兄・正勝さんは明治39年に、その妻であり木村銃太郎の実妹であるたにちゃんは明治41年に世を去っています。




 :人物紹介とはあんまり関係ないことだけど、当時武家にも家格というものがあってですね。家禄によって大きく三つの格付けがありました。
 大身家(500石以上)・中身家(250石以上)・小身家(50石以上)と別れていて(詳しくは藩士藩卒の項目に述べています)、互いに同格の家同士で縁組されるのが普通でした。
 岩本家は65石取り、木村家も65石取りなので、正勝さんとたにちゃんの縁組もやっぱり家格相応ですね。




【二本松少年隊 岩本清次郎 終】

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追記更新履歴
5/25:私事ですが3月に2人目が生まれたため、ちょっと育児で更新停滞中。でもメールは受付けてますのでなんかあったらお気軽にどうぞー(´∀`)
6/18:「岩本清次郎」家紋名追記。並びに余談部分の軍治さんについて誤りがあったため訂正。
6/16:「高根源十郎」に家紋名を追記。
6/14:記事下部設置の拍手お礼画像を変更。
5/19:「内藤四郎兵衛」正確な法号を過去帳戦死姓名附禄から確認したため、諸説分の情報を削除。
5/11:「丹羽新十郎」正確な享年を墓石の刻印から確認したため、諸説分の情報を削除。
5/3:「久保豊三郎・久保鉄次郎」に写真2枚追加。
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歴史・時代物の小説書き。二本松藩在住の郷土史好き。中の人は大層残念な大人だよ。フォローリムーブご自由にー!
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