職制4 山奉行
はい、山奉行!!
職制カテゴリの記事、家老・郡代・城代ときて、なんでいきなり山奉行なんだよ……とお思いの方も多いでしょうが、まあまあそこはそれ。
気の向いたところから更新する――、それがここの管理人クオリティです。
藩政末期、山奉行の職に就いていたのは、岡山持(130石)、南部権之丞(100石)。
(山奉行の定員は通常2名で、家老の発令によって任命されます)
岡山持さんは、二本松少年隊の一人として名の残る「岡山篤次郎」のお父さんです。
この山奉行というのは、まんま山林を管轄するお役人さんのこと。
藩有林の管理はもちろん、私有林伐採時の許可検分、私有林からの上納木材の管理などなど。
読んで字の通り、山林・木材に関することがお役目だよ。
藩有林には、内山(保安林)や争論山(領民同士で争論となって、どちらにも確証がないためどっちつかずになり、結局上納された山)など、いくつか種類がありました。
そんな藩有林のすべてを指す、「御林」という言葉があったそうです。
山奉行さんの下にはさらに「山守」という職があって、御林(藩有林)が存在する村ごとに1~2名配置されていたといいます。
それ以外には、「野火廻り」「山番」といった臨時職がありましたが、これは足軽(藩卒)が職務に当たったそう。臨時の見回りや見張りをしてたみたいだよ。
さらに下には日雇いの木こり(昔は杣《そま》と言った)がいて、実際に御林の手入れや伐採を行ったのは、こうした日雇人足だったわけだね。
さて、因みにこんな話も。
この頃二本松藩では、私有林の所有者は、山の立木を伐採する時には藩に申し出て許可を貰わないといけませんでした。
自分の山でも、勝手に木を切っちゃいけませんよーってことだったんですね。
なぜなら、私有林を伐採したら、山林所有者は伐採した木材のうち良質な約半分の木材を藩に納めること! っていう決まりがあったんですね。
藩から伐採の許可が出ると、山奉行が雇い入れた木こりさんを引き連れて、私有林に出向くんです。
が。
この時、当時らしさというか、そういうご時世だったというか、暗黙の了解みたいなね、そういうのはまあ、やっぱりあったらしいです。
私有林伐採の時、所有者は山奉行をおもてなしするわけだ。
お座敷で酒食のおもてなしをね。
ついでにちょっとお土産なんかも渡しちゃったりして。
んで、それから伐採した木材を検分し始める。
山奉行「おっまえなぁー、もー、普段どんな手入れしてんだよ~。コレじゃ上納木材としてはイマイチなんだよなぁー(・∀・)」
所有者「ヘッヘェ( へωへ`*) これは申し訳ねー」
山奉行「んもー、しょうがねえなぁ。今回は上納しなくていいよ! だってこんなの使えねーもん☆ 次はちゃんと入念に手入れしといてよねっ(ゝω・)☆」
所有者「( へωへ`*)フヘヘ、しかと承りィ!」
本当なら伐採したうちの半分を藩に持ってかれちゃうところを、暗黙の了解で非課税に……!!
恐るべし、接待の威力。
現代ではとても考えらんないよね! 贈収賄だ何だと騒がれる事態になりそう。
と言ってもそこはまあ、昔はこんなの日常茶飯事だったっぽいです。
これに限らず、息子が成人して番入する時なんかも、親は息子の直属の上司になる人に挨拶として幾らか心付けを渡すのが普通だったりもしたわけだし。
代官なども年貢米の徴収において目こぼししたりしていたもので、むしろキッチリしすぎると村人からはひそかに悪代官扱いされてしまいますし、あまりに民からの評判が悪ければ御役御免となってしまう可能性すらあります。
この山奉行も領民との距離が近い分、そうやってバランスを取っていたのでしょう。
あとちょっと補足すると、山林関係のお役人さんには「山同心」なんていうのもあるんだけど、職務内容的には基本的に山奉行と同じ。
但し、山同心の場合は定員8名で、郡代が指名する職だよっていう違いはあるけれど。
組織図的に位置が異なるだけで、山奉行と山同心ていうのはさほど大きな違いはなかったようです(●´ω`●)
丹羽 一学
番頭→家老。
奥羽列藩同盟調印者。
諱:富毅
家禄:600石
生:文政六年(享年より逆算)
没:慶応四年七月二十九日(城内/自尽)
享年:四十六歳
墓所:二本松市大隣寺
法号:了性院義運惠功居士
***
戊辰戦争時の二本松藩家老。
丹羽新十郎と共に白石会議に列席し、奥羽越列藩同盟に調印した人物。
専ら主戦を論じた家老さんです。
「家老」と言えば丹羽一学ってくらいに、The・家老って感じの人。(そうか?)
……なんですが。
一学さまが家老職に進んだのは、慶応四年の閏四月に白石で奥羽列藩会議が開かれた頃で、それまでは番頭を務めておいでだったんです。(丹羽一学家は代々番頭から執政に進むというのが慣例だった模様)
一学さまが家老だった期間は、実はほんの数ヶ月のことだったんですね。
他にも座上の丹波さまを始め、家老職は何人もいましたが、家老としての席次は一学さまが最も下です。
だけど一学さまの発言力は抜群。
当時の家老たちの中では一番脂の乗った年齢であったこと、藩主の流れを汲む一族であることなどなど、周囲を抑えて主張を通せる要素は色々と持ち合わせていたんだろうね。
丹羽一学家は、遡ると丹羽家初代当主丹羽長秀公(二本松藩丹羽家の祖)の弟・秀重(通称は九兵衛)が祖となります。
秀重さんには一男一女ありましたが、娘は他家へ嫁ぎ、嫡男が一学を名乗って家を継いだものの、若くして亡くなってしまいました。
そのため、丹羽家二代当主長重公の弟・長俊の嫡男・長清(通称は五郎兵衛)が丹羽一学家を継ぐことになりました。
簡単に図にすると、こんな感じ。
丹羽一学家の祖である秀重もまた、甥っ子の光重と一緒に大阪の役に出、壮絶な戦死を遂げています。
***
ところで、この一学さまの性格について、「剛毅果敢、その忠義は天性からのもの」と藩史にはあります。
一学さまをはじめ、二本松藩はこういう特徴が書き残されてる人が相当いるんだよね。
主君への「忠」はもう大前提。
家中は当たり前に「忠」を重んじていましたし、それは大人も子どもも同じでした。
二本松藩では、落城の二日前(三日前という説も有)になって藩の成人年齢を15歳(入れ年で13歳)以上にまで引き下げ、出陣許可が出されることになります。
この成人年齢引き下げのために、後の二本松少年隊の子たちが出陣するわけですね。
最終的な成人年齢引き下げには、
・敵はもう城下の目前まで迫ってるわ、
・なんかお隣の三春藩が寝返った上に西軍の嚮導役んなって向かってくるわ、
・しかも白河に派遣してた主力部隊も退路を塞がれて容易に帰ってこれないわ、
・各国境に配置してた各隊も間道からぽろぽろ帰って来る程度だわ……
という
城下大ピンチ!
な状況の中、とにかく帰って来た藩兵と、城内に残ってた部隊で何とか守備を固めておかなきゃいけなかった、という背景があります。
でも実はね。
戦火が近付くにつれて、城内の雰囲気は降伏に傾きかけていたんです。
孤立無援の二本松城に、大垣藩から降伏勧告の使者がやって来たりして(藩主長国公の奥方、久子夫人が大垣藩の出身だからね)。
これにはさすがの二本松城内も
「同盟にはもう充分に義理を果たしたわけだし、これ以上戦うのは無謀だろ。徒に皆を死なせるよりは、降伏と参ろうではないか!」
という論が出始め、そこに纏まりかけます。
いや、一旦は纏まったと言っても過言ではなくってね。
実際、この使者の来訪の後、城下の各要衝に配置された藩兵に対し、撤退命令が出されたんです。
そんな城内の雰囲気を主戦に一気に盛り返しちゃったのが、丹羽一学。と、丹羽新十郎。
「降伏しよーが降伏しまいが、どっちにしろ我が藩は終わりじゃ!! 帰順降伏なんぞありえん、とことん信念貫いて徹底抗戦してやろうじゃねぇか!」
という具合で。(セリフがすいません)
彼らの言葉一つで、二本松藩の運命は決定したと言っても過言ではないでしょう。
こうして、二本松藩は奥羽越列藩同盟の中で唯一、城を枕に戦い抜きました。
戦というものを美化して言う訳ではないですが、彼らの信念の強さ、忠義の心、それらはやはり、讃えられるべきものと思います。
敵の手に落ちるならばと、二本松藩側が自ら火を掛けた、霞ヶ城。
城が燃え盛る中、一学さまはその中腹にある土蔵(武器蔵)奉行役宅で、郡代兼用人・丹羽新十郎、小城代・服部久左衛門さんと共に割腹自尽されています。
(介錯は藩士・大島成渡さん。一学様たちの自尽後は成渡さんがこの役宅に火を放ち、ご遺体ごと焼いています。)
強硬に主戦を論じた者として、戦争の責任を取ったんですね。
丹羽一学が詠んだ辞世の句、
「風に散る、露の我が身はいとはねど、心にかかる、君が行く末」
これは今日でも知る人は多いのではないかと。
戦後は当然、西軍側から戦争責任を追求された二本松藩ですが、その際、謀反首謀者として丹羽一学、丹羽新十郎両名の名前が出されます。
当然、両名とも家名は断絶。(しかし明治十六年になると、丹羽一学・丹羽新十郎の両家名は復興を許されました)
二本松藩の最期を潔く引き受けたとして、今も高く評価され続けている方です。
二本松藩の壮烈な最期を飾った丹羽一学という人物は、今でも色褪せることなく、伝え続けられています。
享年46歳。
現在は市内大隣寺の墓所に、奥様のマチ子さんと一緒に眠っていらっしゃいます。
【丹羽一学・マチ子夫妻墓所】
さて、ちょっとこのあと私見入るよー。いつもの余談ではなく、あくまで私見なので、さらりと流して頂いてOKですw
この先は、しょうがねえなー読んでやるよ! という方だけ「続き」のリンクからどうぞー。
佐久間織部勝親と龍泉寺の翔龍桜
佐久間織部勝親
第四代長沼藩主。
秋月種信の五男。
佐久間勝豊の養子。
諱:勝茲(初:勝親)
生国:九州高鍋藩(秋月氏)
生:寛文九年(1669)
没:元禄四年(1691)正月二日(正月朔日とする資料も多数あるものの、御位牌には二日)
享年:二十三歳
墓所:二本松市龍泉寺
法号:大通院殿智厳浄勝大居士
備考:父=秋月種信、母=松浦隆信女、養父=佐久間安房守勝豊、妻=佐久間勝豊女、娘=坂本小大夫直規室。長兄=出羽守種恒、次兄=兵部(山城守、長門守)種政、三兄=式部(十三郎)種重、四兄=宮内(大助)種利。
※管理人が調べた範囲で大雑把にまとめた年表はこちら。
***
奥州二本松藩、龍泉寺の「翔龍桜」を御存じでありましょうか。
それほど有名な桜ではないかもしれません。
その逸話も、それほど知られているわけではないかもしれません。
だけど、管理人は織部さまも翔龍桜も大好きです。
日頃は主に幕末期の人物の話ばっかりですが、織部さまのその生涯の儚さには、いつも胸の切なくなる思いがいたします。
…………ん? 口調が柄にもなくしっとりしてるって?
そりゃあ、たまにはね!!!(`・∀・´)
管理人も大人の女性としての自覚がないわけではありませんもの(´∀`*)ウフフ
(九割方冗談です)
さて、話は戻りますが。
織部さまは九州は日向高鍋藩秋月家の御出身です。
実父は第三代高鍋藩主・秋月佐渡守種信。
天和3年(1983)、15歳で信濃長沼藩主佐久間勝豊の養子となり、貞享2年(1685)10月遺領を継ぎ、長沼藩一万石の第四代藩主となりました。
因みに、「延宝2年に6歳で佐久間家に養子入り」、という記述も某書中に見ましたが出典のほうを未確認なので念のため添え書きします…!
佐久間家譜を確認したところ、織部さまの祖父(秋月種春)に、佐久間勝豊の伯母(叔母かも?)が嫁いでいたということなので、その関係で養子縁組がなされたのだろうなとおもいましたまる(作文かな)
また、織部さまの諱ですが、こちらも佐久間家譜によれば「勝茲」であり、初諱を「勝親」としてあります。
織部さまのご実家、秋月家では他の代々「種」の字を継いでいらっしゃるし、
実家のご兄弟もみんな諱に「種」がある(長兄:種恒、次兄:種政、三兄:種重、四兄:種利)ので、
とーぜん織部さまも養子縁組前の初めの諱は「種」のつく何かだったんじゃない? って考えてた安直な管理人です。≧(´▽`)≦
ところが、どうも佐久間家の嫡子である勝豊の長男・勝道が織部さまのご誕生と同年に病没されているようなんですね。
で、佐久間家は他に男児もなく、勝豊さんもあんまりご壮健な御身体ではなかったっぽい。
ために、もしかしてですが、織部さま出生の前から両家の間で養子縁組の可能性について話し合われていた……ということも、ありうるのかなー? ってちょっと思いました。
江戸の両家の御屋敷も、めっちゃご近所だったみたいなので。
なんなら物心つく前から佐久間家に暮らしてた可能性もあるか? と勝手に考えてる次第。
それで初っ端から諱に当てる字を佐久間家側に合わせて付けた、とかいう可能性ありませんかどうですか。(読んでる方に訊くスタンスの管理人で本当にすまなんだ)
そうして、貞享5年(1688。9/30元禄に改元)5月14日。
織部さまは小姓を仰せつけられたわけですが、織部さま、病を理由にこれを辞退。
この病というのが偽りだというので不敬とされ、咎められることになった模様。
その月の18日、領地を召上げられてしまいます。
寺院物語中にはその理由を「将軍の旨に逆らうことあり」とだけ書いていますが、
一説にはその理由は「違背の儀、奥女中とのかなわぬ恋ゆえ」とするお話もあるとか。
また、この時織部さまといっしょに寄合・植村外記政明という方も共に小姓を命ぜられている(「徳川實記第四編・常憲院殿御實紀巻十七より)のですが、二人ともが小姓召出しを病を理由に拒否しているようです。(※植村外記政明については、前田宮内利廣へ預けとなった模様。)
この小姓召出し拒否の理由について、江戸時代史上巻(三上参次著/富山房/昭和19)の中には「将軍の峻厳にして且つ癇癪あるを知れるを以て、終に奉仕に堪へざるを思ひ、二人とも病と称してこれを辞退せり」と書かれていました。
小姓辞退の理由は諸説あるようですが、ともあれ、勝親・政明共に5/15には逼塞を命ぜられています。
屋敷の門を括って釘を打ち、外から掛戸を掛け、家中用事は夜五ツ(午後八時)から夜半にかけてのみに限られたとのこと。
なお、18日には養母(勝豊正室)と妻(勝豊娘)は旗本・本多備前守へ預となりました。
と、そういうわけで。
このために領地まで没収され、織部さまご自身は、はるか異郷の二本松藩丹羽家御預けの処分とされてしまいました。
というかこれ、将軍綱吉公の時代なんですけど、この方の代で改易された大名は30家あまり、旗本に至っては100家ほどもあるそうで、本来なら役付きになることは大変な名誉なことだけど、みんな役付きになるのを避けたがっていたってなんか偉い人が言ってたよ!
他にも、家計逼迫で側仕え無理です! 強引に近侍させるなら自害します! って言った人が島流しになった…とか。
(※綜合日本史大系で読みました…)
(評価色々な綱吉公ですけども、まあ公方様に限らず人物への評価なんてものは見る側語る側の視点次第、かつ、その時代ごとの価値観の変遷等で評価も大きく変わるものですし、今後もその治世を見直されたり、でもやっぱひどくね? ってなったり、色々変わっていくのでしょう)
(ちなみに管理人は綱吉公詳しくないから個人的な評価・見解は書かないよ、すまん)(えっ)
そして。
龍泉寺の翔龍桜は、織部さまが丹羽家御預けとなり、若くして世を去られたその頃に植樹された桜なのだそうです。
織部さまの二本松下向時には、御用人二名(余談3に後述)が付き添い、更に二本松藩士・松田喜左衛門が道中の警護をしたといいます。
5月25日に江戸を発ち、6月1日二本松へ下着。(※長次年譜より)
二本松到着後、当地で逼塞の織部さまの監守役は二本松藩士・佐々吉兵衛(吉兵衛さんは佐々成政の一族)が務めることとなったそうです。
二本松へ移った織部さまは、赦免を待たず、そのまま二本松の地において二十三歳という若さでこの世を去りました。
(前述の植村外記政明は後に赦免、旗本復帰しているので、織部さまももう少し長くご存命であられれば、あるいは……と思ったり思わなかったり)
織部さまは龍泉寺に埋葬され、今も美しい翔龍桜に包まれるようにして眠っています。
慣れぬ二本松の地で、織部さまは何を思い、どんな日々を過ごしたのでしょうか。
桜が美しければ美しいほど、織部さまの哀しく切ない想いを象徴しているかのようで、胸が苦しくなります。
当地への配流から死を迎える数年の間にも、心安らぐひとときを感じることがあったなら……、と願うばかりです。
織部勝親の死から300年以上が経つ今もなお、桜はその墓を守り抱くかのように、毎年美しい花を咲かせています。
【龍泉寺の翔龍桜と佐久間織部勝親墓所】
※写真中央(桜のすぐそば)が織部さまの墓所だよ!
とまあ、管理人にとっては全面的にとても愛おしく感じられる桜です。(突然の強調文字)(強調すべきは絶対ここじゃないよな…!)
余談その1
織部さまの御正室は三代長沼藩主勝豊公の御息女なのですが、織部勝親さまには娘さんが一人おられたようです。
この娘さんは後に中西孝元(内匠、主水/※母方叔父・本多忠将(上級旗本)の娘の嫁ぎ先が中西家。)に養育され、長じて坂本小大夫直規の妻となったということです。(「寛政重修諸家譜」より)
余談その2。
宮本幹也氏の著書「女豪おまんの巻」(昭和27年刊行)というのがあるんですが、これに織部さま出てくるんですよねぇぇぇぇぇぇ
国会図書館のデジタルコレクションで読めますんで、図書館利用登録してある方は是非w
(時代小説系あるあるですけど、ちょっとアレなシーンも匂わせ程度ですがありますので苦手な方はご注意を)
並みのヒロインよりもヒロインな織部さまが拝めます。(しかし主人公は織部さまではない)
余談その3。
織部さまの遠行後、生家である高鍋藩秋月家では、元禄四年正月にまずその卒去を風聞に聞いたそうです。
その真偽を確かめるべく、秋月家御家中の太田与左衛門さんが丹羽家留守居に問い合わせ、その風聞が真実であると知ったのだとか。(※日向郷土史料集高鍋本藩実録より)
(この頃には高鍋藩は勝親実兄の秋月種政が継いでいました。種政は元禄二年に32歳で家督)
なお、織部さまの御配所に付き従っていた御用人のお二人は、その織部さま遠行後に当地を去られたとのことです。
この御用人二人というのが、関次右衛門さんと春秋源之丞さんでした。
(二本松寺院物語だと喜和源之進、安井時僚覚書だと春和源之進となっていますが、高鍋藩本藩実録並びに二本松藩丹羽長次公記附録には春秋源之丞とあるため、正確には「春秋源之丞」ではないかと考えております。読みは不明。「はるあき」か「ひととせ」か、どちらかだと推察。)
関さんに至っては織部さまの御供を自ら願出たということで、高鍋では貞享5年二本松下向後の9月に関さんの御母堂に対し、二人扶持が与えられました。(高鍋藩本藩実録より)
この辺りから察するに、織部さまご実家からもずっとずっと愛されていたんだな……(´;ω;`)
って、ほろりときます。
余談その4。(余談多)
前述の中に出てきた「佐々吉兵衛」さん。
佐々成政の一族とだけ注釈入れてましたが、折角なので少しばかり補足いたしませう。
佐々家が丹羽家に仕官したのは、吉兵衛の祖父「佐々太右衛門」の代でした。
その頃の丹羽家当主は長重公(丹羽長秀の子)。
太右衛門は長重公小松在城の時に仕官して、足軽頭600石。
その後、長重公は寛永9年に白河移封となりますが、太右衛門の子「吉右衛門」もそれに従い、改めて新知200石を受けています。
その吉右衛門の子が、後に織部の監守となった「吉兵衛」さんなんですね。
とはいえ、この佐々家、幕末までは続いておりませぬ。
つか、この吉兵衛さんが何かやらかしたとかで、この代で永の御暇となったらしいです。
【2023年4月追記】
写真撮り直したよー!
やっと…!!
(本当にな)
(なんだよ2023年て)
(この記事書いたの2013年でねぇの!っていう幻聴が聞こえるよ!)
しかし↑に載せてるガラケーで撮ったものも記念にそのまま載せておきます()
夜もほんと美しくて……!(´;д;`)
どんだけ足繁く通ってんだかもうわかんないですw
ほんと、翔龍桜も織部さまの墓所も大切にされていて、ほこほこします(*´ω`*)
余談その5。 (まだやるのかその余談シリーズ)
丹羽家預けとなったあとも、時の二本松藩主丹羽長次公は勝親公を一大名として遇していたものと推察されるわけですが。
後年、時代が下るにつれて、二本松でも勝親公がどんな人物であったか、なぜこの地に葬られているのか、徐々に忘れられてしまったようです。
勝親公没後150年ほどしてまとめられた「相生集」(二本松の風土記のようなもの。天保12{1841}年完成)にも、勝親墓として書き留められているものの、「勝親は安房守勝春の実子也、未知何人」とあるだけ。
近年、長沼と二本松の間に交流が生まれ、佐久間公を偲ぶ会が発足されるなど、とっても素敵なことになっているようです。*゚。+(n´v`n)+。゚*
※龍泉寺さまHPをご参照ください(お問い合わせタブ内のお知らせ履歴の中にその際の記事があります)。
織部さま、本当に本当に、良かったね…! (´;ω;`)
ここに高鍋藩も加わったら最強だね…!(いかがですか高鍋の方々…!)
えー、なお、安政六年(1859)の翔龍桜の奉納絵が現存するとのことで、こちらの実物を拝ませて頂きまして本当に本当に眼福でございました……!
っと思っていたら今年(2023年)、それが御朱印にぃぃぃぃ…!!!
あ、あれ…? ぼくあした切腹になるのかな!? と思ったくらいには歓喜しました毎日拝んでます(御朱印って拝むものでしたっけ)(存ぜぬ)
織部さま織部さま叫んでいたら、龍泉寺の現御住職に「なんか愛がすごい」とお墨付きを頂きましたので末筆ながらご報告させて頂きます(何の報告w)(名誉と受け取らせて頂きます)
【佐久間織部勝親と龍泉寺の翔龍桜 参考】
・二本松市龍泉寺
・二本松寺院物語
・二本松市史
・二本松藩史
・相生集
・佐久間家譜
・信濃佐々禮石 中
・史籍収攬廃絶禄
・大奥の女中 上
・寛政重修諸家譜
・近世日本国民史第17巻
・江戸時代史上巻
・宝祚大典 智
・綜合日本史大系
・徳川實記第四編・常憲院殿御實紀巻十七
・日向郷土史料集 第6巻、第7巻
・大武鑑
・中古武家続盛衰記
・信濃教育
ほか
大島 七郎
大島成渡義直(年賦取立役/90石)の弟。
大島雲平の末子。
後の安保七郎。
生:安政三年(年齢より逆算)
没:明治三十年一月十九日
享年:四十二歳
墓所:大隣寺
法号:智浄院本然了義居士
※備考:兄=成渡(義直)、祐之助(義質/工名は紫玉)、原久太夫など
***
大島七郎、戊辰当時は13歳でした。
年賦取立役90石取りの大島成渡義直(当時36歳)の末弟で、父親は大島雲平義正(当時56歳)。
お父さんの雲平さんは八男あったということなので、末子である七郎は八男なんですね。
名前の感じから「あれ、七男か?」とつい思っちゃうんだけどねぇ。
この七郎も木村銃太郎の門下生で、二本松城下戦の時には若先生に引率されて大壇口へ出陣。
戦じゃ戦じゃぁぁぁあああ! っと、七郎もきっと他の少年たちと同様にはしゃいでいたんでしょうなー。
結局、大壇口の銃太郎隊は、引率していた木村銃太郎と二階堂衛守の二人を相次いで失い、大壇口退却後はみんな散り散りになっていってしまいます。
大壇口戦の経緯は既に過去の少年隊士の紹介で触れたのですっ飛ばすよ!(^ω^ ≡ ^ω^)
大壇口退却後、七郎は御両社山(二本松神社)の陣へ向かい、そこで再び戦闘に参加しています。
御両社山にはこの時、2番組の日野大内蔵隊や、大谷志摩率いる遊撃隊が布陣してたんですね。(日野隊には銃太郎の父・木村貫治もいたよ)
七郎は幸いにも味方の大人たちと合流出来たわけです。
で、ここでも戦闘に参加してるってぇことは、たぶん七郎は元気だったんでしょうな。
この日の戦で、七郎は右手を負傷しています。
が、どこで右手を負傷したのかは不明。
けど、七郎はその後生涯右手が不自由であったということなので、相当重傷だったんでしょう。
とすれば、大壇口で負傷したと考えるよりは、御両社山での戦闘で負ったと考える方が自然なのかな~(´ω`)?
***
戦後、七郎は旧二本松藩士・安保忠左衛門家を継ぐことになります。
戦後は駒場農学校(駒場農学校とは⇒Yahoo百科事典)を卒業。
その後、青田原開墾事業にも参加しました。
※青田原は二本松藩が軍事調練なんかを行っていた土地で、今の本宮市にあるよ(*´∇`*)
明治13年7月には、七郎は梅原親固(旧藩士)と連盟で官有地を拝借して、同年11月には松田正斉(七郎同様に元二本松少年隊士で、元の名は鹿野寅之助)などと一緒に入植しています。
二本松の旧士族は、戦後みんなそれぞれに教員になったり行政職に就いたりしてますが、こうした土地開墾事業に参加した人も結構多くいたんですね。
しかし開墾事業は困窮を極め、生活も思うように成り立たず、参加した殆どの人が早々に撤退しています。
さらに後に、福島県農事試験場(後の農業試験場。農業試験場も現在は福島県農業総合センターになってます。 ※リンクはセンターHP)の技手になりました。
そして明治30年1月19日。
戦後の約30年、苦難を乗り越えて生きた七郎もまた、42歳の若さで世を去りました。
七郎は大隣寺安保家の墓所に眠っています。
休憩中も御家中と一緒。
☆丹羽直違紋アクキー☆
さりげなく松藩を推せる。
☆織部さまアクスタ☆
管理人の推し。台座で実家の秋月家に帰ったり養子先の佐久間家に行けたりする。
☆大壇口の二勇士アクキー☆
みにきゃら二勇士。
- 三浦権太夫
- 三浦行蔵
- 上ノ内
- 上ノ内の二銃士
- 上崎鉄蔵
- 下河辺武司
- 中村久次郎
- 丹羽一学
- 丹羽光重
- 丹羽家
- 丹羽直違紋
- 丹羽長国
- 丹羽長富
- 丹羽長重
- 久保豊三郎
- 久保鉄次郎
- 二本松万古焼
- 二本松城
- 二本松少年隊
- 二本松神社
- 二本松藩主
- 二本松藩士
- 二階堂衛守
- 井戸
- 代官
- 佐久間織部勝親
- 修陸羽道之記
- 儒者
- 入れ年
- 内藤四郎兵衛
- 切通し
- 剣術
- 加藤豊治
- 医師
- 南部権之丞
- 参考資料
- 大城代
- 大島七郎
- 大島家
- 大檀口の二勇士
- 大谷家
- 大谷武
- 大谷鳴海
- 安保七郎
- 安保家
- 家紋
- 家老
- 小姓目付
- 山同心
- 山守
- 山岡栄治
- 山岡次郎太夫
- 岡山篤次郎
- 岩本清次郎
- 幼年兵世話役
- 広間番
- 弓術
- 成田才次郎
- 敬學館
- 日影の井
- 日本三井
- 書家
- 木村丈太郎
- 木村貫治
- 木村銃太郎
- 村越の小父さん
- 柔術
- 検定
- 槍術
- 樽井弥五左衛門
- 歌人
- 氷餅
- 氷餅奉行
- 池ノ入
- 渡辺東岳
- 町奉行
- 畠山家
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