藩士藩卒




 二本松藩での成人年齢は二十歳と定められており、そのため城への出仕も二十歳から六十歳までという規定がありました。

 その中でも、俸禄の額によって、身分は「藩士」と「藩卒」に区分されていたようです。

 藩から受ける禄が五十石以上の者を「藩士」と称し、家禄五十石未満の扶持取りは「藩卒」と称します。


 平たく言っちゃえば、「藩卒」ってのは「足軽」だね。

 実際に、当時は五十石以上の藩士を「本士」と呼び、扶持取りの藩卒を「足軽」や「軽輩」と言ったそうです。



 ※藩士(本士)の子弟が成人後、扶持を受けている場合がありますが、この場合は足軽とか軽輩とは言わないよ!
 例えば木村銃太郎。慶応4年には既に22歳で、ちゃんと砲術師範にもなってるけど、俸禄は4人扶持です。
 少ないよね!
 でも、木村家はこの時まだ、銃太郎の父「貫治」さんがまだ現役で、貫治さんが65石を受けていたんですね。
 なので、銃太郎はまだ部屋住の身分だったんです。
 銃太郎の俸禄が少ないのはそのためで、もしこれで貫治さんが隠居して銃太郎が木村家の当主になれば、それまで貫治さんが受けていた65石を今度は銃太郎が受けるようになる、というわけ。




 因みに「藩士(本士)」には三段階の区分がありました。




○大身家(重臣家とも)

 ・500石以上家老とか番頭になれる)家柄。
 ・藩末期には17家
 ※一般にはこの大身家の人も「殿様」とか「姫様」とか呼ばれたりしてたよ。



[ 大身17家 ] ※家名/当主/当主の職名/家禄

 丹羽家/丹羽丹波(富教)/家老/3600石内300石与力知、360石同心知、外格料150石
 丹羽家/丹羽内蔵助(国順)/3000石内200石与力知
 江口家/江口三郎左衛門(正道)/家老/2000石
 成田家/成田助九郎(正順)/1550石内200石与力知
 大谷彦十郎家/大谷鳴海(信古)/番頭/1400石
 和田家/和田弓人(清照)/1300石内300石与力知
 浅尾/浅尾数馬介(常吉)/家老/1000石
 大谷本家/大谷与兵衛(元清)/番頭/1000石
 丹羽掃部助家/丹羽掃部助(忠恕)/家老/1000石
 日野家/日野源太左衛門(和美)/家老/900石外格料100石
 種橋家/種橋主馬介(成徳)/番頭/700石
 丹羽家/丹羽一学(富毅)/家老/600石外格料100石
 丹羽家/丹羽右近(正澄)/番頭/650石
 高根家/高根三右衛門(壽祺)/番頭/600石
 樽井家/樽井弥五左衛門(克己)/番頭/600石
 内藤家/内藤四郎兵衛(正置)/大城代/600石
 本山家/本山大助(安恵)/番頭/600石


○中身家(馬持とも)

 ・250石以上の家柄。
 ・藩末期には52家
 ※まあまあ重職に就ける家柄だよ。



○小身家

 ・50石以上の家柄。
 ・藩末期には247家
 ※小身家はこの区分内で更に段階分けされてました。
 「小身家上士」
 「小身家中士」
 「小身家下士」
 の、三段階に分けられてたようです。




 大中小身家のほかに、馬方や医師、与力などの38家が加わって、藩末期の藩士(本士)は354家、ありました。
 単純に藩士(本士)の人数となると、部屋住身分の者も含むからもっと多くなります。




 で。

 前記のように番入の年齢や引退の年齢が決められていますが、20歳未満、或いは60歳を超えた場合は、藩士にも藩卒にも該当しません。

 但し、これには実は例外も認められていて、

・特殊な技能を有する
・功臣の子孫
・その他藩が特別に認めた場合

 これらにおいては、たとえ本人の年齢が二十歳未満、六十歳以上でも藩士及び藩卒の身分を賜る事を許可されました。


 「その他、藩が特別に認めた場合」というのは、分かりやすい例で言えば、「本来の当主が何らかの事情で不在(死去など)の時には、その嫡子が未成年であっても家督を継ぐことが許可され、当主禄を受ける場合」など。




【藩士藩卒・終】

 ブログランキング・にほんブログ村へ