大島 七郎



 大島成渡義直(年賦取立役/90石)の弟。
 大島雲平の末子。

 後の安保七郎。



 生:安政三年(年齢より逆算)
 没:明治三十年一月十九日
 享年:四十二歳
 墓所:大隣寺
 法号:智浄院本然了義居士

 ※備考:兄=成渡(義直)、祐之助(義質/工名は紫玉)、原久太夫など



     ***



 大島七郎、戊辰当時は13歳でした。


 年賦取立役90石取りの大島成渡義直(当時36歳)の末弟で、父親は大島雲平義正(当時56歳)。


 お父さんの雲平さんは八男あったということなので、末子である七郎は八男なんですね。
 名前の感じから「あれ、七男か?」とつい思っちゃうんだけどねぇ。



 この七郎も木村銃太郎の門下生で、二本松城下戦の時には若先生に引率されて大壇口へ出陣。

 戦じゃ戦じゃぁぁぁあああ! っと、七郎もきっと他の少年たちと同様にはしゃいでいたんでしょうなー。



 結局、大壇口の銃太郎隊は、引率していた木村銃太郎二階堂衛守の二人を相次いで失い、大壇口退却後はみんな散り散りになっていってしまいます。

 大壇口戦の経緯は既に過去の少年隊士の紹介で触れたのですっ飛ばすよ!(^ω^ ≡ ^ω^)




 大壇口退却後、七郎は御両社山(二本松神社)の陣へ向かい、そこで再び戦闘に参加しています。

 御両社山にはこの時、2番組の日野大内蔵隊や、大谷志摩率いる遊撃隊が布陣してたんですね。(日野隊には銃太郎の父・木村貫治もいたよ)

 七郎は幸いにも味方の大人たちと合流出来たわけです。

 で、ここでも戦闘に参加してるってぇことは、たぶん七郎は元気だったんでしょうな。



 この日の戦で、七郎は右手を負傷しています。

 が、どこで右手を負傷したのかは不明。

 けど、七郎はその後生涯右手が不自由であったということなので、相当重傷だったんでしょう。

 とすれば、大壇口で負傷したと考えるよりは、御両社山での戦闘で負ったと考える方が自然なのかな~(´ω`)?



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 戦後、七郎は旧二本松藩士・安保忠左衛門家を継ぐことになります。

 戦後は駒場農学校(駒場農学校とは⇒Yahoo百科事典)を卒業。

 その後、青田原開墾事業にも参加しました。

 ※青田原は二本松藩が軍事調練なんかを行っていた土地で、今の本宮市にあるよ(*´∇`*)




 明治13年7月には、七郎は梅原親固(旧藩士)と連盟で官有地を拝借して、同年11月には松田正斉(七郎同様に元二本松少年隊士で、元の名は鹿野寅之助)などと一緒に入植しています。

 二本松の旧士族は、戦後みんなそれぞれに教員になったり行政職に就いたりしてますが、こうした土地開墾事業に参加した人も結構多くいたんですね。

 しかし開墾事業は困窮を極め、生活も思うように成り立たず、参加した殆どの人が早々に撤退しています。


 さらに後に、福島県農事試験場(後の農業試験場。農業試験場も現在は福島県農業総合センターになってます。 ※リンクはセンターHP)の技手になりました。




 そして明治30年1月19日。

 戦後の約30年、苦難を乗り越えて生きた七郎もまた、42歳の若さで世を去りました。

 七郎は大隣寺安保家の墓所に眠っています。




【大島七郎 終】

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