丹羽 一学
番頭→家老。
奥羽列藩同盟調印者。
諱:富毅
家禄:600石
生:文政六年(享年より逆算)
没:慶応四年七月二十九日(城内/自尽)
享年:四十六歳
墓所:二本松市大隣寺
法号:了性院義運惠功居士
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戊辰戦争時の二本松藩家老。
丹羽新十郎と共に白石会議に列席し、奥羽越列藩同盟に調印した人物。
専ら主戦を論じた家老さんです。
「家老」と言えば丹羽一学ってくらいに、The・家老って感じの人。(そうか?)
……なんですが。
一学さまが家老職に進んだのは、慶応四年の閏四月に白石で奥羽列藩会議が開かれた頃で、それまでは番頭を務めておいでだったんです。(丹羽一学家は代々番頭から執政に進むというのが慣例だった模様)
一学さまが家老だった期間は、実はほんの数ヶ月のことだったんですね。
他にも座上の丹波さまを始め、家老職は何人もいましたが、家老としての席次は一学さまが最も下です。
だけど一学さまの発言力は抜群。
当時の家老たちの中では一番脂の乗った年齢であったこと、藩主の流れを汲む一族であることなどなど、周囲を抑えて主張を通せる要素は色々と持ち合わせていたんだろうね。
丹羽一学家は、遡ると丹羽家初代当主丹羽長秀公(二本松藩丹羽家の祖)の弟・秀重(通称は九兵衛)が祖となります。
秀重さんには一男一女ありましたが、娘は他家へ嫁ぎ、嫡男が一学を名乗って家を継いだものの、若くして亡くなってしまいました。
そのため、丹羽家二代当主長重公の弟・長俊の嫡男・長清(通称は五郎兵衛)が丹羽一学家を継ぐことになりました。
簡単に図にすると、こんな感じ。
丹羽一学家の祖である秀重もまた、甥っ子の光重と一緒に大阪の役に出、壮絶な戦死を遂げています。
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ところで、この一学さまの性格について、「剛毅果敢、その忠義は天性からのもの」と藩史にはあります。
一学さまをはじめ、二本松藩はこういう特徴が書き残されてる人が相当いるんだよね。
主君への「忠」はもう大前提。
家中は当たり前に「忠」を重んじていましたし、それは大人も子どもも同じでした。
二本松藩では、落城の二日前(三日前という説も有)になって藩の成人年齢を15歳(入れ年で13歳)以上にまで引き下げ、出陣許可が出されることになります。
この成人年齢引き下げのために、後の二本松少年隊の子たちが出陣するわけですね。
最終的な成人年齢引き下げには、
・敵はもう城下の目前まで迫ってるわ、
・なんかお隣の三春藩が寝返った上に西軍の嚮導役んなって向かってくるわ、
・しかも白河に派遣してた主力部隊も退路を塞がれて容易に帰ってこれないわ、
・各国境に配置してた各隊も間道からぽろぽろ帰って来る程度だわ……
という
城下大ピンチ!
な状況の中、とにかく帰って来た藩兵と、城内に残ってた部隊で何とか守備を固めておかなきゃいけなかった、という背景があります。
でも実はね。
戦火が近付くにつれて、城内の雰囲気は降伏に傾きかけていたんです。
孤立無援の二本松城に、大垣藩から降伏勧告の使者がやって来たりして(藩主長国公の奥方、久子夫人が大垣藩の出身だからね)。
これにはさすがの二本松城内も
「同盟にはもう充分に義理を果たしたわけだし、これ以上戦うのは無謀だろ。徒に皆を死なせるよりは、降伏と参ろうではないか!」
という論が出始め、そこに纏まりかけます。
いや、一旦は纏まったと言っても過言ではなくってね。
実際、この使者の来訪の後、城下の各要衝に配置された藩兵に対し、撤退命令が出されたんです。
そんな城内の雰囲気を主戦に一気に盛り返しちゃったのが、丹羽一学。と、丹羽新十郎。
「降伏しよーが降伏しまいが、どっちにしろ我が藩は終わりじゃ!! 帰順降伏なんぞありえん、とことん信念貫いて徹底抗戦してやろうじゃねぇか!」
という具合で。(セリフがすいません)
彼らの言葉一つで、二本松藩の運命は決定したと言っても過言ではないでしょう。
こうして、二本松藩は奥羽越列藩同盟の中で唯一、城を枕に戦い抜きました。
戦というものを美化して言う訳ではないですが、彼らの信念の強さ、忠義の心、それらはやはり、讃えられるべきものと思います。
敵の手に落ちるならばと、二本松藩側が自ら火を掛けた、霞ヶ城。
城が燃え盛る中、一学さまはその中腹にある土蔵(武器蔵)奉行役宅で、郡代兼用人・丹羽新十郎、小城代・服部久左衛門さんと共に割腹自尽されています。
(介錯は藩士・大島成渡さん。一学様たちの自尽後は成渡さんがこの役宅に火を放ち、ご遺体ごと焼いています。)
強硬に主戦を論じた者として、戦争の責任を取ったんですね。
丹羽一学が詠んだ辞世の句、
「風に散る、露の我が身はいとはねど、心にかかる、君が行く末」
これは今日でも知る人は多いのではないかと。
戦後は当然、西軍側から戦争責任を追求された二本松藩ですが、その際、謀反首謀者として丹羽一学、丹羽新十郎両名の名前が出されます。
当然、両名とも家名は断絶。(しかし明治十六年になると、丹羽一学・丹羽新十郎の両家名は復興を許されました)
二本松藩の最期を潔く引き受けたとして、今も高く評価され続けている方です。
二本松藩の壮烈な最期を飾った丹羽一学という人物は、今でも色褪せることなく、伝え続けられています。
享年46歳。
現在は市内大隣寺の墓所に、奥様のマチ子さんと一緒に眠っていらっしゃいます。
【丹羽一学・マチ子夫妻墓所】
さて、ちょっとこのあと私見入るよー。いつもの余談ではなく、あくまで私見なので、さらりと流して頂いてOKですw
この先は、しょうがねえなー読んでやるよ! という方だけ「続き」のリンクからどうぞー。
二本松藩を代表する主戦論者、とゆーことで、ちょこっとだけ私見ー。
確かに、二本松藩が早々に帰順していれば、番入り前の子どもたちが戦死することはなかったかもしれませんよね。
そこまで徹底して抗戦に拘ったのは何故なのか?
どうして子どもにまで出陣を許したのか?
色々疑問は出てくるだろうと思います。
子どもまで出陣させるなんて、血も涙もねぇ。
城の大人が許可さえ出さなきゃ、子どもが戦死するのも回避出来てたはずじゃん。
子どもにまで戦わせて、何やってんのさ。
って、現代の感覚だとそんなふうに思われる方もいるかもしれません。
しかし主戦を唱え続けた一学さまたちにしても、家中の子どもたちを思うところが無かったわけではないと、私は思っています。
白河戦争が勃発して以来、元服前の家中子弟たちは度々「自分たちも出陣したい」と嘆願をしていたといいます。
寧ろ、子どもとはいえ、彼らの忠義とその意志を汲むという意味では、充分なほど考えていたのではないでしょうか。
そして、番入り前の子どもたちを戦場に出す、ということにおいて、延々と懊悩していたからこそ、これほどギリギリまで出陣許可が出なかったのではありますまいか。
木村銃太郎門下の少年たちに出陣許可が下りた背景は、既にこの項目でも前述しましたね。
子どもたちの出陣は、果てしない逡巡の末に出した結論だったのでしょう。
少年たちの中の生き残りでもある堀良輔(後の通名)氏も、後に二本松少年隊の勇戦について語り残していますが、
「藩士子弟は物心ついた頃から決してお城の方に足を向けて寝ることを許されなかった。転寝をしてうっかり足を向けたりすると酷く叱られたものだった。これはほんの一例に過ぎないが、これをもってしても、我が藩子弟の精神教育が如何に厳粛であったかがわかると思う。
(中略)
僅かに十三、四歳の身をもって、莞爾として君公の城に殉じたのも、決して一朝一夕の出来事ではなかったのだ」
と。
まず、現代とは考え方が大きく異なります。
当時の彼らの思想・行動は、現代社会に生きてる私たちの物差しのみで測れるものではありません。
当時の常識は現代の非常識、現代の常識は当時においての非常識、という部分も多いことでしょう。
その点をまず理解しなければならないと考えます。
大人も子どもも、それぞれがそれぞれに郷土と主君を想って戦ったのです。
二本松藩の戦の正否を論ずるよりも、如何なる苦境にあろうと信念と忠義を貫いた彼らの真っ直ぐな心を想い考え、また受け継いでゆくことこそ、大切なことなのではないでしょうか。
……と、思います(´・ω・`)
この考えにすごーく同意します。
八重の桜の影響力は凄くて(統子さんは、とてもショックを受けておられてましたが)、放送してからかなり経つのに今もツイッターで呟かれています。それを見ているとかなり今の感覚で捉えている人がいますね。
彼等が生きた時代、そして武士の家という環境で育った事をまるで考えていないんですから。命の考え方が、現代と違うのは当たり前なのに。
だから、大人は何をやってたんだ、こどもを戦場にやってとか、藩主はこどもを戦わせているのに逃げたんだとか、またイラクやナチスとかいう言葉まであって本当に驚きました!(色んな考えがあるにしても)
八重の桜では、統子さんが書かれている二本松藩があの時どんな状態だったかの説明がなかったから尚更かもしれませんが。
幼くても武士としての誇りや、命をかけても大事なものを守りたい心があったと思います。(美化でもなんでもなく)
今彼らにかわいそう、かわいそうだったねと言ったらどんな顔するかな、どんな答えをするかなと想像します。
何故?と逆に聞かれたり、あるいは無礼なと怒るかもしれませんね。