丹羽 光重
丹羽家第三代当主。
二本松藩初代藩主。
丹羽長重公の三男。
左京太夫。
幼名: 宮松丸君
諱 : 長栄→光重
生母: 山形氏(竜光院)
夫人: 安藤右京進重長(上州高崎城主)娘
生 : 元和七年十二月二十八日(丹羽家御歴代便覧によれば二十七日)
没 : 元禄十四年四月十一日(病没)
享年: 八十一歳
墓所: 二本松市大隣寺
法名: 慈明院殿玉峰性瑤大居士
治世: 白河藩⇒寛永14年~寛永20年/二本松藩⇒寛永20年~延宝7年
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二本松藩の初代藩主です。
父上は二代当主丹羽長重公。
母上はそのご側室・竜光院様。
長重公の三男として生を受けます。
長重公には、長男・二男と先に二人の男児がありましたが、その二人ともが早世してしまったんですな!
光重公は、長重公とご側室・竜光院様との間に長重三男として生まれたわけです。
ところが。
長重公の正室・報恩院様(=織田信長公の五女だよ)、結構嫉妬深い性格だったらしく……。
長重 「あーもう側室に子ども出来たなんてコレ、あいつにバレたらやべーよ\(^o^)/ どうしよう、あいつ絶対怒っちゃうよ」
――報恩院様 『側室との間に子どもじゃと!? しかも男児!!! ズゴゴゴゴゴゴゴ(暗雲)』――
長重 「っていう展開になるよコレ! :(l|iヾω゙):」
てな感じで、正室vs側室の、女のバトルを恐れた長重公は、光重の誕生を隠蔽します。
やー……、女の人も大変だったと思うけど、殿方も大変だね!
まあ、いつの世も、結構女の人のほうが強いものなのかもしれませんな'`,、('∀`) '`,、
そんなくだりがあって、幼い光重は、丹羽家の家臣にコッソリ預けられちゃいます。
その家臣の奥さんが、於東の局という才女だったそうで、お作法や文武教育にも心血注いで育ててくれた模様。
それがやがて、光重公が名君と呼ばれるほどに成長する要因になったのかもしれないね!
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そんでもって、宮松丸(光重)が七歳になった頃。
漸く、正室の報恩院様にその存在を報せよう、ということになります。
長重 「やっぱさ……、まずいよね、正妻に世継隠してるとかさ……」
樽井(重継) 「まずいでしょうなぁ」
長重 「長男も二男も亡くしちゃってるし、宮松丸ももう七歳じゃん?」
樽井 「(´・ω・`) そうですね、いつまでも隠し通せるものではありませんからね。御台様にも何とかご納得頂ける良策があれば良いのですが」
長重 「(´Д`)ハァ…だよなー。樽井さぁ、説得がんばってね?」
樽井 「……さらっと嫌なお役目を申しつけないでください、殿」
長重 「がんばってね? 俺もがんばって樽井のこと応援するから」
樽井 「Σ( ´゚д゚`)応援!? 殿当事者なのに応援するだけの係!?」
長重 「俺、樽井のためだったら、ウチワとか横断幕とか作っちゃうよ! 応援文句は『樽井☆LOVE』とかどう?」
樽井 「やめてください恥ずかしい!! わかりましたよもう! やりますよ! 私が説得すればいいんでしょ……!」
長重 「(´∀`*)ウフフ 話せば解ってくれるよ、だいじょぶだいじょぶ!」
樽井 「……(´;ω;`)」
結局、ご正室に事の委細を説明・説得するという結構こわーい役目を引き受けたのが、時の老臣・樽井重継さん。
樽井さんが頑張ってくれたお陰で、何とかご正室にも無事納得して貰えたようです。
で、報恩院様と幼き光重公が初めて顔を合わせることになりました。
すると。
幼き光重公を初めて目の当たりにした報恩院様は――。
徐に懐刀を取り出し、樽井さんにぶん投げました。(ヒィ!)
樽井 「ヽ(;゚д゚)ノ ビクッ!!」
報恩院 「わたくしはね、樽井。そなたの説得の後も、ぽっと出の嫡子なぞ如何なものかと常々心配していたのです」
樽井 「ご、ご心労は御察し申し上げ――」
報恩院 「じゃが、何も心配する必要などなかったようじゃの(*´∀`*)」
樽井 「(; ´Д`)=3 フゥ」
宮松丸君の利発そうな様子を見た報恩院様は、とても喜んだそうです(笑)
果たして、樽井さんにぶん投げた懐刀の真意とは……!
もしも仮に宮松丸君がそのお眼鏡に適わなければ、刺してたんですかね……。
((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
※但しこの辺の話は色々と諸説あって、
「報恩院さまは光重に懐刀ぶん投げたんだけど、それを樽井さんが途中でばしっと受け止めて『有り難く頂戴しまっす!』って頂いちゃった」
とか、
「報恩院さまが懐刀取り出したところ、光重が賺さず『母上さまぁぁぁぁ』って抱きついたから報恩院さまも刀どうしていいかわかんなくなった」
とか、色々話はあるみたい。
しかしいずれにしても報恩院さまが懐刀取り出したのは間違いないようですwww
そして幼き光重公はこれを機に報恩院様を養母とし、丹羽長重公の嫡子として正式に決定しました。
パパ、一安心(笑)
樽井さんもやっと人心地ですな(笑)
……と、このように、光重公の幼少期には色々と複雑な背景がありましたとさ。
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ところで光重公、最初の諱は「長栄」でした。
寛永十一年十二月、父・長重に連れられて当時の将軍・徳川家光に二度目の謁見をします。(一度目の将軍謁見は、正式に嫡子になった七歳の時ね)
この時、将軍家光の一字を賜り、諱を「光重」と改めたそうです。
この後、十一歳で安藤右京進重長(上州高崎城主)の娘と結婚しました。
さて、長重公の代にはまだ、二本松藩ではなく、白河藩を治めていた丹羽家。
長重公の没後、光重公は十七歳で白河藩主を引き継ぎます。
後、寛永二十年になると、二本松藩の誕生に伴って国替えを命じられ、初代藩主となりました。
十万七百石の二本松藩領内の基礎基盤を作り上げ、藩の諸制度の制定、などなど。初代は本当、大変です。
お仕事ごっさり。
城内と城下町の大規模な整備工事もこの時に行われ、それは今現在でも市街地の基礎として姿を留めています。
そんなこんなで、光重公の功績は大きいです。
藩政の傍ら、茶道(号・半古庵)やら画(号・玉峰)、華道、書道なんかにも精通していらしたようです。
光重公、入府の時に「神仏を敬い、祖先を尊び、忠孝を重んずべし」と大方針を発表してます。
これは方針は、幕末までずーーーーっと受け継がれてます。
因みに、光重公、水戸の光圀公(黄門様で有名)とも親交があったらしく、入府の際の最初の祝詞が光圀公だったそうだよ!
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さて、そんな名君として後世に伝えられる光重公ですが。
民情視察をチョコチョコ行うなどもしていたそうです。
雄藩雑話にこんな話も。
ある夜、小役人の家をコッソリ覗いてみた光重公。
一家はちょうど、夕食団欒のひと時を過ごしていました。
しかもこれがまた、家族の話に耳を欹ててみれば、この日は何かのお祝いの日である様子。(盗み聞き…!)
だけど、おかずは鰯だけ。
その鰯を、子供達は競い合って食らい付いてたそうな。
そんな様子を見た光重公。
思わずほろり。(´;ω;`)
翌日、その小者を呼び出して、藩主直々に俸禄の加増を申し渡したのだそうです。
この他、光重公には煙管ぶっ立て逸話(えっ)なんかも存在しますが、それは別途『「突き」の伝統剣法』の項目でご紹介申し上げます。
また、当ブログでは長重公の逸話として別記事に紹介している「親孝行の話」、あれが「光重公の逸話だ」とする説もあるので、併せてご参照下されば幸い(*´ω`*)
(この項目、光重公の紹介のはずなのに、長重公ずいぶん出張ったな……!)