三浦 権太夫
二本松藩随一の勤皇志士。
三浦義武(130石/軍奉行兼勘定奉行)の長男。
母:寿(ひさ)、弟:忠三郎(後に忠晃)
諱:義彰
生:天保八年
没:慶応四年七月二十九日(郭外供中口/自尽)
享年:三十一歳
墓所:二本松市観世寺
法号:顕功院善英雄居士
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戊辰戦役東軍戦没者の中で、唯一、靖国神社に合祀されているのが、この人です。(大正七年に従五位を贈られ、後昭和に入ってから合祀)
父は義武さん。
庭園やら書画やらを嗜み、自ら「松湖」という号を称していたりしてます。
じいちゃんの義類さん(郡代)も、やっぱり風流人で「一舟」という号で詩人活動なんかもしてました。
そんな中、まだ少年だった権太夫サンも、藩の儒学者、堀謙斎の門下に入ります。
後、尊王の志を抱くようになりますが、愛藩精神はとてーも強い人だったそうな。
性格としては、質実剛健、清廉潔白。
もー今の時代の官僚方にも見習ってもらいたい面が 多 々 見られます。
権太夫さん(以下ゴンちゃん)はですね。
文久二年の五月、藩主の参勤交代に従って、江戸詰めになっています。
これがゴンちゃん、初めての執務ですよ。
お母さんもハラハラです。
ところが。
ゴンちゃんは見た…。
筆頭家老の丹波様はじめ、藩の重臣たちが、藩の政治を思いのままに動かしているのを!
ゴンちゃん憤慨。
その上、この文久の頃には、徐々に幕藩体制も不安定になり始め、時勢もだんだんと不穏な方向へ来ていると憂います。
そして遂に。
ゴンちゃん、建白書を叩き付けてしまいます。
「人材を登用し、能吏に任じて兵制を改革、軍備を充実させるべし。
んーでもって無駄遣いしてんじゃねぇ! んな余裕があったら人件費とか軍費とかに当てろっちゅうねん!
そんでも足りなきゃー、そうさな、三百石以上の高給取りな重臣の俸給を半減してみたらドゥーよ!」
と。(要約御免)
強いです。ゴンちゃん。
今の時代で言えば、平社員が入社早々、社長にビンタするようなもんです。(寧ろそれ以上)
凄いですね。怖いですね。
案の定。
丹波様たち重臣連中は猛烈プリプリ大激怒。
そこで、反撃の策謀を企てた重臣たち。
ゴンちゃんは藩政を乱す者、として江戸から二本松へと強制送還。
投獄処分とされてしまいます。
……偉い人って汚いですね、フフ!
獄中からも同様の建白書を送ろうとしたらしいですが、これは失敗に終わってしまいます。
因みに、このとき……
上書の紙はチリ紙で、字を書く為の墨は着物の染料の藍を水に溶いたものを用い……
筆は。
自分のスネ毛を束ねて。
代用したそうな。
(昔話程度なので、事実かどうかは不明/笑)
ま、その翌年には牢屋を出る許可が出されてます。
ただ、赦免されたわけではなく、自宅禁固処分。
あいたたたー(ノД`;)
仕方なく、弟子を集めて私塾を開いて過ごしました。
そして、さあ来た、慶応四年。
七月、戦火が二本松藩領内にまで及んだために、ここでやっとお許しが出ます。
そして、藩命によって、ゴンちゃんは農兵を率いて藩境の杉沢村(現在の岩代町)に出陣と相成ります。
が、後に後退して供中口の守備にあたるようになります。
ここでおさらい。
ゴンちゃんは勤皇論者です。
二本松に向けて進軍してくるのは、王師(帝の軍隊のこと)です。
王師に弓引けば、勤皇を志に掲げる自らもまた、逆賊です。
出陣の直前、ゴンちゃんは両親に対して、こう言い残したそうです。
「天皇に対抗する意思は全くない。けれども、藩命に抗うことも出来ない。死を以て、両方に臣節を全うする覚悟です」
と。
最初から死ぬ覚悟で戦場へ出たゴンちゃん。
出陣の姿は、烏帽子直垂に弓矢を携えた姿でした。
そして供中口。
ゴンちゃんは、向かってくる西軍に一矢放ち、応戦しました。
ですが、その矢は鏃が外されたものだったそうです。
その後、率いていた農兵を解散し、人員を全て退却させてしまいます。
ゴンちゃんだけは供中に残り、西兵の銃撃を受け、そこで潔く割腹自尽しています。
この他、流れ弾に当たって絶命したという説もあるようですが、その検死時に弓弦に辞世の句が結びつけてあったことを考えれば、恐らくその最期は、覚悟の自尽であったのでしょう。
享年、三十一歳。
「あす散るも、色はかはらじ、山桜」
三浦権太夫、辞世の句。
【写真:供中口古戦場】
※左の写真の白い看板、これ2005年に撮った写真で、現在は撤去されちゃってます。
【三浦権太夫・終】