岩本 清次郎
岩本名左衛門(代官/65石)の二男。
上ノ内の二銃士。
諱:正冠
家紋:丸に九枚笹
生:嘉永五年(年齢より逆算)
没:慶応四年七月二十七日(糠沢上ノ内戦死)
享年:十七歳
墓所:蓮華寺
法号:義光院仁山日礼居士
※備考:兄=岩本正勝、義姉(正勝妻)=たに
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糠沢組代官・岩本名左衛門(諱を正直)さんの次男坊、岩本清次郎。
戊辰当時17歳です。
清次郎自身は銃太郎の門下生ではなくて、銃太郎の父・貫治の門下生。
だけど、貫治の門下生も銃太郎の指導を受けることがあったようなので、一時的にとは言え、清次郎も銃太郎から砲術を学んだんだろうね!(*´∇`*)
戊辰戦争の時には、二本松藩三番組・樽井弥五左衛門隊に配属されて、糠沢村の上ノ内で戦闘に参加しています。
二本松少年隊の一人とは言っても、清次郎の年齢は17歳。
番入り前の子どもと言っても、年長組なんだよね。
藩の成人年齢を、通常20歳(入れ年で18歳)のところを徐々に引き下げていった、というのは二本松少年隊の記事中にも書きました。
清次郎に出陣命令が下ったのは、城下戦で大壇口に布陣する銃太郎の門下生たちよりも、もっと早い時期だったわけだ。
清次郎たち年長組が出陣するのを見て、年少組の子たちが「俺らも戦に出たーいぃぃぃい!」って出陣嘆願するような場面もあったわけなんだね。
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さて、清次郎が属する樽井隊が本宮口へ出陣したのは、6月29日のこと。
この出陣の時、実は清次郎は微熱があった、という談もあり、どうやら従軍中も清次郎の体調はあまり芳しくなかったようです。
(樽井隊長が戦後の手記に、清次郎の不調についてちらっと書き残してるよ!)
そう……知ってる人は知っている。
後に上ノ内の二銃士と呼ばれるうちの一人が、この岩本清次郎なんです。
(二銃士のもう一人は、やっぱり当時17歳の中村久次郎)
樽井隊は本宮口から上ノ内に陣を移し、7月27日の未明(早朝6時説も)に薩摩藩川村与十郎隊による奇襲を受けます。
番所や斥候からは川村隊の動きは報告されなかったようで、完全に不意打ちだった模様。
そこに加えて未明時分のことだったもんで、樽井隊の人員はみんな慌てて応戦。
暫く激しい戦闘が繰り広げられますが、出鼻を挫かれた上に、敵は最新式の武器を所有し、調練の行き届いた軍隊。
樽井隊はほぼ壊滅状態、というところまで追いつめられてしまいます。
次々と斃れていく二本松藩兵に、もはや撃退は不可と判断した樽井隊は「各々引き揚げて、城下に帰り着いた者は光現寺に集合」と指示。
敵弾を逃れた僅かな藩兵たちは城下へ向けて散り散りに引き揚げていくこととなります。
しかし。
清次郎は戦線を離れることなく、久次郎と共に最後の最後まで銃を撃ち続けました。
※同じく樽井隊に鼓手として従軍していた武藤定助(当時16歳)が、二人の奮戦の様子を語り残しています。)
樽井弥五左衛門麾下の多くがこの上ノ内で戦死。
結局、城下光現寺に集合した生存者は、隊130名中、わずかに17名。
大人たちが次々と斃されていく中、未だ17歳の清次郎と久次郎は、互いに励まし合いながら撃ち続けたのかもしれないですね。
その命が失われるまで、果敢に銃撃を続けた清次郎と久次郎の胸中には、一体どんな想いが秘められていたのでしょうか……。
※同じく樽井隊所属であった田中三治(当時16歳)もこの戦で戦死しています。
上ノ内の古戦場には慰霊塔が立てられ、戦死者の霊は今もなお、手厚く祀られています。
【糠沢・上ノ内古戦場 合葬塔ならびに群霊塔】
※合葬塔・群霊塔のある古戦場は私有地です。
お参りされる方は、黙って敷地に立ち入ったりせず、敷地を所有・管理されている御宅への敬意と感謝を忘れずに、失礼のないよう充分にご配慮くださるようお願いいたします。
清次郎は城下蓮華寺に、久次郎は城下台運寺に埋葬され、静かに眠りについています。
【岩本清次郎墓所】
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さて。
恒例の余談ですけどね!(だが恒例ってほどでもない)(どっちだよ)
清次郎にはお兄ちゃんがいましてね。
清次郎の兄・正勝さんは、木村銃太郎の妹である「たに」ちゃんをお嫁にもらっています。
戊辰当時、正勝さん24歳、たにちゃん19歳。
開戦頃にはたにちゃんはお産のために木村家へ里帰りしていたんだよね。この話は割と知ってる人は多いかもしれないけども。
正勝さんは明治以後も生存していらっさいます。
戊辰の頃に正勝・たに夫妻の子として生まれたであろう長男(軍治さん)は、若くして亡くなられたようです。
(と言っても、よくよく調べてみたら軍治さんの享年は41歳でした。明治41年没。)
(寺院物語の中には軍治さんについて「早世」と書かれていましたが、確かに若くして亡くなられてはいるものの、軍治さんには奥様もお子様もいらっしゃいます。しかし軍治さんの子も後に24歳の若さで没しているので、寺院物語中の「早世」という記述は、この辺が混ざってしまったものと思われます)
二男の繁さんは医学の道を志して軍医になったそうで、家を継ぎ、後に二本松で開業なさりました。
清次郎の兄・正勝さんは明治39年に、その妻であり木村銃太郎の実妹であるたにちゃんは明治41年に世を去っています。
注:人物紹介とはあんまり関係ないことだけど、当時武家にも家格というものがあってですね。家禄によって大きく三つの格付けがありました。
大身家(500石以上)・中身家(250石以上)・小身家(50石以上)と別れていて(詳しくは藩士藩卒の項目に述べています)、互いに同格の家同士で縁組されるのが普通でした。
岩本家は65石取り、木村家も65石取りなので、正勝さんとたにちゃんの縁組もやっぱり家格相応ですね。