丹羽 新十郎
郡代。用人。
250石。
丹羽見山の第三子、末男。
丹羽和左衛門弘道の養子。
家紋:桔梗
諱:正名。後に茂正。
生:文政十一年(年齢より逆算)
没:慶応四年七月二十九日(城内自尽)
享年:四十三歳
墓所:二本松市大隣寺
法号:月照院心空霊明居士
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二本松藩きっての駿才とも言われた、丹羽新十郎。
戊辰の役には「郡代」として名を連ねている彼ですが……。
実はその直前までは「郡代見習い」でした。
代官⇒郡奉行⇒郡代見習い、という具合で、着実に昇進してきていました。
郡代という職務の傍らに、藩の相談役とも言うべき「御側御用人」も務めていた、何だか辣腕家的イメージの漂う人。
その性格は「機智に富み、事務に通じ、また弁も立つ」という表現も残されており、それを見るだけでもかなり有能な人物だったことが伺えます。
頭の回転が早くて仕事もさくさくこなしちゃう。
さらに口も上手いときたもんだ。(何もそんな言い方)
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新十郎がまだ郡奉行だった頃、藩内の大平村で難解な殺人事件が起こりました。
公儀の隠し目付けが何とか容疑者を嗅ぎ付けはしたものの、当時の町奉行や郡代の取調には黙秘を続ける容疑者。
これでは埒が明かない、と、お役人たちは大層困ってしまったそうです。
そこで。
困った皆様方、ふと藩内でも駿才と大評判な丹羽新十郎の存在に思い至ります。
「そうだ、新十郎にこの件を任せてみよう!」
ということで、上役さんたちは満場一致。
そんなこんなで殺人事件の裁きを任せられてしまった新十郎。
この抜擢で、新十郎は郡奉行から郡代見習いへと昇格したことになります。
さて。
上役たちがどんなに自白させようとしても、容疑者一味は一向に口を割らなかったのですが、新十郎が担当になると、容疑者一味はぼろりぼろりと白状し出したそうです。
とりあえず新十郎すげぇな……!
一体……どんな取調の手法を用いたんでしょうか……。
ゲスな私はものすごくえげつない拷問でもしたんじゃないのとか、実に穿った想像しちゃったりもするんですが。
どんな拷問したんでしょうか、個人的に非常に気になります。
そんな新十郎が、私は好きです。
(いやいいから先に進めよ)
(具体的に知ってる方がいらしたら、是非出典資料と共に教えてください……!)
聴取方法はさておき、容疑者一味の自白によって、この事件の下手人が確定。
彼等を牢屋にぶち込むと、さっさと処刑の準備に移りました。
お裁きは、六町引き回し(市中引き回し)の上での、斬罪梟首。
当時処刑場であった供中口(現在の安達ヶ橋付近)に、罪人三名を引き出しました。
首を刎ねる前、目隠しをしますね。
この時目隠しされる寸前、犯人の頭目的な男が検視役の新十郎を睨みつけたんですよ。
自白させられた事があーもう悔しい、たまんねえ。つうかおまえ呪ってやる! ぐらいの勢いで。
悪党の最後の悪あがきを見た新十郎ですが、やっぱり素敵な新十郎、そいつに一言冥土のお土産。
「はん! 然程に口惜しければ、そこの土塊にでも喰らい付くがよいわ!」
と。
(私的に、この時新十郎にはせせら笑っていて欲しい)
(そんなこと言われても)
で。
下手人は首を刎ねられたわけですが、伝わるお話によると、ほんとに土塊に喰らい付いたらしいよ。(笑)
ちなみにこの犯人の名は高島源吾で、罪状は強盗殺人。(共犯がいたとかいないとか、その辺りは定かでないので書かずにおきます)
色々と藩領内を騒がせていた奴だったようです。
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とまあ、こんなエピソードを持ってる新十郎さん。
戊辰の役には家老の丹羽一学と共に強硬に主戦を唱えて、仙台や会津、白石などに東奔西走。
しかし白河戦争が始まると、戦局は日に日に悪しくなるばかり。
この当時、城内に書取次役として出仕していた中畑十太氏(当時11歳)が後に回顧して語り残しているので、少し触れてみたいと思います。
白河戦争勃発以後、二本松はどんどん兵力を投じ、城内はガラガラ。
がら空きになった二本松には、戦の激化に伴ってどんどん負傷者が運び込まれてきます。
毎日早駕籠や早馬が引っ切りなしで、城内は騒然とし、奥院では殿様(丹羽長国公)を中心に会議が続いていました。
いよいよ二本松城危うしという頃になると、城内は混乱の極み。
そうなると、もう取次役の少年たちに食事の世話をする者などいなくなってしまったそう。
そんな中、十太氏は新十郎からお弁当をもらって食べていたそうです。
けれど、落城の二日前(七月二十七日)になると、とうとう城から帰されてしまったのだとか。
新十郎 「この城はもう危ない。おまえはもう城を出て家へ戻りなさい」
十太 「いやです、私も一緒に城で死ぬつもりです! 帰れなどとはあんまりです!」
新十郎 「馬鹿を言うな。おまえは早く家に帰って、両親とともに米沢へ逃げろ」
十太 「私も一緒に置いてください!」
新十郎 「ならぬ!!」
十太氏も、子どもながらに「自分も一緒に城で死のう」と覚悟を決めていたそう。
新十郎に対して「一緒に城に置いて欲しい」と頼み込んだ十太少年でしたが、新十郎は頑としてその願いを聞き入れてはくれなかったそうです。
十太は泣き泣き家に帰り、その夜のうちに米沢へ向けて出発したそう。
(※頃合いからして、藩主夫人の立退きと同道かと思われます)
幾日も掛けて米沢へと向かう道の途中、十太は「新十郎が壮烈な最期を遂げた」と聞き、あまりの悲しさに母の手に取り縋って声をあげて泣いたそうです。
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二本松城が落ちたその日には、家老の一学、城代の服部久左衛門と共に、城内土蔵奉行役宅にて割腹自尽しています。
享年四十三歳。
この時、養父の丹羽和左衛門も城内に留まっており、新十郎の自尽を知らされた後、和左衛門も割腹自尽しています。
更には、新十郎夫人の「きみ」さんは、この時既に藩主夫人らと同行して城下から落ち延びていく道中にありました。
二本松落城の報せと共に、夫である新十郎が自尽したとも知らされ、思い余ったきみさんは自害を図ります。
夫である新十郎の死を深く嘆いたでしょうし、同時に、あくまでも徹底的に主戦を貫いた夫のために皆が辛苦を味わっている現状を思い、新十郎の妻として強い責任を感じたからかもしれません。
ですが、これは周囲の人々が必死に抑えたために、未遂で済んでいます。(きみさんは戦後、八丁目小学校に教諭として勤めたということです)
戦後、戦争責任者として家老・丹羽一学家同様に家名断絶の処罰を受けましたが、明治十六年二月二十一日に家名再興を許されました。
城内土蔵奉行役宅跡には、現在、自尽した三人の重臣のための碑が建てられています。
現在、丹羽新十郎・きみ夫妻は大隣寺の墓所に二人並んで眠っておられます。
※注記
記事中の十太氏の回顧は戦後70年余り経った頃のものです。
回顧時の十太氏が既にご高齢だったことを思えば、多少の記憶違いなども含まれるかと思います。
けど、戊辰当時11歳とは言え、役目を与えられて城へ出仕していた者が、世話になった人物を語り違えることは考え難いと思ったため、紹介文に含めることにしました。
やっぱり、十太を世話し、今生の別れを交わしたのは新十郎その人であったのだろうな、と管理人は考えています。
(悲しい話ではあるけれど、戦の混乱の中、十太少年にお弁当あげてる面倒見の良い新十郎、一緒に残るって泣いて頼む十太少年を突き放す新十郎、改めて素敵な人だったんだなぁって思ったよ/管理人の感想)
【丹羽新十郎・終】