山岡栄治(大壇口の二勇士)の父。
諱:恵延
生:文政元年(享年より逆算)
没:嘉永六年七月十四日
享年:三十六歳
墓所:二本松市正慶寺
法号:履信院釈修善信士
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初っ端からアレですが、「大壇口の二勇士」の一人である「山岡栄治」のお父さんです。
次郎太夫(恵延)さん26歳の時に、長男である栄治(恵行)さんが生まれています。
嘉永元年、それまで作事奉行を務めていた次郎太夫さんは、糠沢組代官に役替えとなります。
それから歳月は過ぎ、嘉永5年のこと。
この年、次郎太夫さんと山岡家にとって大きな事件が起こるんですね。
ご乱心。
です。
すごくすごーーーーーく気になるんですが、ある日突然乱心した、というよりは、内心に鬱屈した何かを抱え込んでいて、それがふとした折に暴発したのかなぁ……と思えるような記述が、年代記にあります。
この年の正月の晦日、城下の伯父にあたる人が、この頃の次郎太夫さんの様子を見かねてか、次郎太夫さんを訪ねてきたそうです。
この時伯父さん(名前は伏せられてて分からず)が何を言ったのかは定かではないですが、火燵で話をしているうちに、次郎太夫さんは背後に引き寄せておいた短刀を引き抜き、突如斬り付けちゃったようです。
で、伯父さんも泡食って、素手で抜身を押さえちゃったんですね。
そら当然ケガしますよね!
指2~3本傷ついちゃったみたいです。
指は切り離されなかったのでしょうか。
むしろ指ぐらいで済んだのかよ、とおもいました。
そこで家人も仰天して、何とかかんとか次郎太夫さんを組み伏して取り押さえます。
火燵にあたって喋ってんな~、からの、突然の刃傷沙汰ですから、この時の叫喚の声は想像に難くないですね。
取り押さえる者、また手代(郡代とか代官の下役)に知らせに走る者、ちょっとどころではない大騒動だったろうと思います。
そうして駆け付けた手代によって、縄を打たれてしまうのでした(´・ω・`)
この乱心の原因について、村内のケンカの始末しくじった目明しがお代官様に賄賂で云々とか、ご新造が美女で嫉妬がどうのとか、実際どうなのよ……真相が明確に書かれていないので何とも……というところです。
気になるよね。
私も気になるよ……
気になって夜も8時間しか眠れないよ……
(充分寝てるね!)
賄賂のくだりが本当のところなのかなと個人的には思っとります。
目明し手先の鉄之助がどうのっていう文言があったんで、具体的個人名が出てるし。
しかも失態を金で何とかウヘヘェって感じで、きっとどう取り計らっていいか困り果てちゃったんだね……
あ、補足ではありますが、この目明し。
町奉行配下にある同心の下働きのことを目明しと呼びます。今で言う警察官みたいな。
火付けや強盗事件の密偵やったり、逮捕するのもこの人たち。
けどこの目明し、同心が手札を渡してるってだけで、奉行にも与力にも直接は通じていないものなんですね。
同心が直接雇用してるような感じ。
だからお賃金も、奉行所から同心が受け取って、同心がそれを目明しに配るっていうシステムです。
「ほんの少額」っていうから、大した稼ぎにはならなかったんですね……。
補足終わりまーす。
で、先走って恐縮ですが、次郎太夫恵延さん、この事件の半年後くらいに亡くなられてるんですよね。
そこ思うと、だいぶ追い詰められていたんじゃなかろうかと。
するとやっぱり賄賂問題で心労を重ね、狂乱……というものがしっくりくるんですよね。
きっと根が真面目で、きちんとしたい人だったんだろうなぁ。
適度に阿呆になれれば良かったのに……。
ばーかばーかって言ってハナクソくっつけて突き返してあげれば良かったんだよ……(無茶言うな)
それか伯父さんの話とか「ほーん( ´_ゝ`)」って鼻ほじりながら聞き流すくらいふてぶてしさがあったら或いは……(やめてあげて)
前述の斬りつけたところでも、指2~3本で済んで良かったじゃんて話したけどさ……。
もしかして次郎太夫さん、どん詰まりまで追い詰められた心の内にも、どこか箍がかかっていたのかもしれないよね。
えっ、あっ、そこ普通に記録しとくんだ?
載せちゃうんだ??
なんか昼ドラみたいな噂話、載せちゃうんだ??
へぇー……? って思いました。
そんな噂の一例がまんま載ってる年代記も大好きです。
でも古文書特有のあのよう分からん文体が読めない解せない難解すぎて、頭の形変わるかと思いました。
そんな小難しい文体でいかにもって感じなのに、書いてある内容昼ドラ的な噂話とかほんとひどいだろうよ(褒め言葉)
(管理人は学校の古文の時間とかスヤッスヤだった人です)
(みんな……! 勉強は、出来るうちにしといたほうがいいぞ……!)
注:古文書自体読めない奴が調べながら頭ねじり倒して何とか読んだだけなので、解釈違いもあるかもしれないです。
解読なら任せとけ! っていう漢気溢れる方がいらしたら原文送り付けますのでどうかご教示ください。
さて、そんな経緯で、それまでの糠沢組代官の職(在職中の禄高は100石)を解かれ、親類預けとなってしまいます。
(糠沢組代官の後任は錦見権之進が命ぜられ、安政3年5月末まで就任)
その後、嘉永6年に没。
この時、長子の栄治はわずか11歳でした。
これを境に、戊辰まで恤救五人扶持という何とも切ない境遇に陥ることになっちゃったんですね……。
えらい早いことお父さんと死に別れてしまった長子の栄治さんですが、父である次郎太夫さんも、10歳で父親(栄治さんから見ると祖父)と死に別れています。
次郎太夫没後、長子の栄治が26歳で没するまで恤救身分が続いたこと、その上で栄治が大壇口で死力を尽くして戦ったことを思うと、山岡家、なんだかとても不遇であったように思えてなりません。
あ。
次郎太夫さん、事件の翌年に亡くなられていますが、ちょっと直接的な死因はわからず。
記述から察するに、事件後も相当心労を抱え続けていたんだろうなあ……、と思えてならない。
戊辰戦争には直接絡まないけれど、その辛い最期に、今頃は栄治さんとお酒でも酌み交わしてゆっくり休めているといいなぁって、心の底から願わずにはいられないですね。
【山岡次郎太夫恵延】