岩井田 昨非



 儒学者。
 家禄百五十石。
 下野国芳賀郡(現栃木県)出身。

 生:元禄十二年
 没:宝暦八年三月十四日
 享年:六十歳
 墓所:二本松市台運寺



     ***

 名を希夷、字は子微、通称を舎人と称し、昨非というのは彼が幾つも持っている号の中の一つです。「昨非」の他に「甑岳」「屠龍」などの号がありました。


 岩井田昨非、知っている人は知っている、「戒石銘」の進言者です。


戒石銘1






 二本松藩史上、一番取り上げられやすい人。

 ですが、二本松藩のご出身ではありません。

 上記に述べたとおり、下野国、今の栃木県の出身なのでございます。

 後に幕府の儒学者である「桂山彩厳」の元に学び、儒学の道を究めます。





 昨非が儒学を究めたその頃、二本松藩は第五代藩主「丹羽高寛」公の治世にありました。

 ところがこの時代、二本松藩士の中には、文字の読み書きすら覚束ない者が大多数でした。

 そんな中、藩主の高寛公はこれはまずいってことで「よっしゃ、藩政の改革じゃ!」と意気込んでいました。

 が。

 意気込んだまでは良かったものの、はてさて一体どうすればこの状況を改善することが出来るんだべか。と、行き詰ってしまいます。

 高寛公の改革を何とか実現させようと頑張っていた、当時の二本松藩ご家老「丹羽亮助(ただすけ)」も、なかなか良案を出せずに懊悩してしまいます。

 そこで、家老・亮助様は親しくしていた前述の「桂山彩厳」に相談することにしたのです。

 すると、桂山は「岩井田昨非」の名を出したそうです。

 桂山の推薦があり、これが縁で岩井田昨非の二本松藩入りが決まったのでした。

 これが享保九年(1734年)のことで、昨非はあれよあれよという間に二本松藩丹羽家に百五十石で召抱えられることになりました。



     ***


 さて。

 かくして二本松の土地にやって来た昨非先生。

 着くなり文武教育の義務化やら軍事制度や民政、刑罰など、ありとあらゆる改革を次々と押し進めだしました。


 ただ、もともと二本松の国許で藩政に携わる藩士たちには、これがどうも面白くなかった。

 重臣たちの中には、猛烈に大反対した人も結構多くいたようです。

 そりゃー、突然やってきた余所者に何から何まで慣例を覆されちゃうわけですから、これまで自分の手の内で好きなように政を担ってきた重臣たちの目には、昨非先生は片腹痛い存在に映るってもんです。

 こういう傾向はいつの世も変わりありません。現代社会でも当たり前に見られる光景ですね!


 一見すると四面楚歌な昨非先生がここまで強硬に改革を進めることが出来たのは、何よりもまず、その後ろ盾が藩主と家老だったからに他なりません。

 藩主が背後に控えているんですから、他の重臣はいくら昨非先生を不満に思っても、従わざるを得ないわけで。

 刑罰なんかでは、耳だの指だのを切り落としたり、罪人の証となる焼印を付ける所謂「焼き鏝」などを廃止。
 藩士の教育も、毎月決まった日数だけ講義を受けるように取り決め、学問の普及に努めました。


 因みにね、この頃、藩主がプラリと外へお出かけする時には、出掛けた先の近所の民家に立ち寄って、そこで食事を取ったりするのが当たり前だったのですが、これについても昨非先生はご一考。

 出掛け先の民家つっても、その時々でほんとにごくごく普通の農民の家だったりします。

 一般人の家に総理大臣が昼飯食いに来るようなもんで、家人は農作業どころじゃないわけです。

 これでは農民に大きな負担がかかる。

 と、いうことで。



「殿! お出かけの時はお弁当持っていきましょう!」(なんかほのぼの…!)



 ……そういうことになりました。

 昼食を取る為に民家にお邪魔することはあっても、無駄に長居しなくて済むように、という意図で、弁当持参を提案。殿も「さっすが、いいこと言うなぁ!」と、勿論OK!

 そうして、何だかんだで昨非先生の藩政改革はまだまだ続いていくことになるんです。







 余談ですが、こののち寛延の頃になると、二本松藩にはお隣の会津藩との間で、藩境を巡っての領土問題が起こります。

 尤も、藩境の件は以前から抱えていた問題でもあったのですが、これもやはり昨非先生が先頭に立って解決に努め、会津と二本松の境界争いも丸く収まったということです。



     ***


 そして、昨非先生が二本松へ来てから15年後。

 寛延二年(1749年)に改革と綱紀粛正の一環として「戒石銘碑」が完成します。




「爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺」



 16字4行の文字を、天然の大岩(花崗岩)に刻んだものです。


戒石銘2





 これを進言したのも勿論昨非先生で、その進言を受けて実行を命じたのは第五代藩主丹羽高寛公。

 なのですが、これが完成した頃には高寛公は隠居し、六代目の高庸公が藩主の座にありました。



 しかしですね。この寛延二年、折悪しくも凶作の年だったんですよ。

 藩がこんなことやってる間に、民草は不作に喘いで「年貢減らせ~」て言ってるんですよ。

 そんな困窮している農村に、とある旅の修験僧が訪れます。

 こいつが曲者でした。

 この修験僧は、戒石銘の文の意味を誤解していたらしく、不作でヒーヒー言ってる農民を前に、こんなことを言いました。




僧「アー、戒石銘ね、あれほんと最悪! 『民草はなんぼでも騙せちゃうし、別に虐げたっていいから汗でも脂でもごっそり搾って、君ら武士の給料にすればいいじゃん!』っていう意味よ? え? 知らんかったの? まじ? えっ、うっそ、まじ知らんの?」



農民ズ「…………」(ショックで言葉も無い)






 農民たちは大激怒。

 さらに、最初から昨非の改革に反発していた重臣なんかが、ここぞとばかりにコッソリ農民たちの怒りを煽ってみたり。

 そんなこんなで、「一揆」にまで発展しちゃったんですね~。

 藩主始め、城内はビックリ仰天。これはマズイ。ということで緊急会議!


「一揆にまで発展した最大の要因は、昨非の戒石銘にあるようだ」


 という声が大多数を占め、昨非先生大窮地。


 さすがに一揆という事態にまで発展してしまった以上、藩主や家老が如何に庇っても庇いきれません。だって既に暴動起こってんですから。たとえ曲解が原因であっても、大元の火種はやっぱり昨非進言の「戒石銘」なわけで。

 やんややんやと責め立てられ、昨非先生は自ら一揆の鎮圧へと赴きます。

 そして、蜂起した民を前に、昨非先生はしずしずと戒石銘本来の意味を説明しました。


 戒石銘の本当の意味は、


「おまえたち武士の俸禄はすべて、民の流す汗と脂である。民を虐げることは容易いが、上天を欺くことは出来ない」


 という、武士を戒めたものだったんですね。




 それを聞いた農民たちはたちまちに怒りを鎮め、暴動は収まりました。

 中には、感動して泣いちゃった人もいたとか。うん、わかる。たぶんわたしでも泣く。




 誤解を解いて一件落着。


 か と 思 い き や 。


 これ、反昨非派にとってはまたとない好機。

 いくら誤解は解いたと言っても、こんな事態を引き起こしたのは紛れも無い事実。それを前面に押し出して、反昨非派はこの一件を境に、あからさまに昨非を強く批判するようになりました。

 後ろ盾としての藩主も既に代替わりし、城内での批判は高まるばかり。

 辣腕家の昨非先生も、これにはどうにも対処しかねたのかとうとう出仕を遠慮してしまいます。仮病で。(何もそんな言い方)

 こうして宝暦三年に辞職して以後は、詩を綴って過ごす静かな晩年を送りました。





 宝暦八年三月十四日、臨終の際に一遍の詩を詠み、病没。

 二本松市内台運寺にある墓石には、その詩が刻まれています。




天生異人 名曰希夷 有濟世才 不得其時
唐虞忽焉 沈淪所宜 死葬此山 月冷風悲



 享年、六十。

 (但し、相生集によれば、或いは享年五十七歳とも)


sakuhi2





【岩井田昨非・終】

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