二階堂 衛守
大谷信義(元家老)の二男。
大谷鳴海(番頭)の弟。(但し寺院物語に因れば叔父)
二本松少年隊副隊長。(幼年兵世話役/幼年兵指図役)
広間番。
十人扶持(六人扶持とも)
家紋:三つ巴
諱:信近
生:天保七年(年齢より逆算)
没:慶応四年七月二十九日(郭外大隣寺前/戦死)
享年:三十三歳
墓所:二本松市大隣寺
法号:円成院卍相意得居士
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大谷家の二男なのに、なんでか二階堂姓を名乗っている人。
彼の身辺にはどうも色々と背景があるようですが、現時点ではどのような経緯で二階堂家を設けたのか明確なことは判明していません。
一説に、
「大谷彦十郎信義に男子が出来なかったために衛守を養子に迎えたが、その後になって鳴海が生まれたため、大谷家を実子である鳴海に継がせ、衛守には新たに二階堂姓を名乗らせた。その為恐らく実際には鳴海よりも年上だっただろうと思われる」
というお話を伺ったことがあります。(が、現時点で管理人は史料や家系図等でそれらの確認を出来ておりません…。)
しかし。
二本松寺院物語には、「二階堂衛守(大谷鳴海弟)」と記された後に「実は叔父」という部分を見ることが出来ます。
これ、「実は衛守は鳴海の叔父にあたるよ!」ってことですよね?(紹介文で閲覧者に尋ねる管理人がここに居ますw)
実は叔父、ということになると、前述の説に通じるところがあるように思えるのは私だけでしょうか。
でも衛守さん、どの資料を見ても慶応四年当時「三十三歳」とありますし、墓誌もやっぱり「三十三歳」。同時期の鳴海は三十五歳で間違いないし……。……うーん。
この点を、大谷家七不思議のひとつに取り上げたいと思います(えっ)
というかこの大谷鳴海・二階堂衛守兄弟について詳しくご存じの方、あるいはご血縁にあたられる方、もしも万が一このページをご覧になっておられましたらどんな些細な情報でも構いませんので、管理人へ御一報頂けたら大変有り難く存じます…!
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さて、それでは紹介に戻ります。
大身の家の出でありながら、二本松城下戦では六十五石の木村貫治家の息・木村銃太郎の補佐役という立場の衛守さん。
普通ならこんな配属はありえません。ええ。
実を言えばこの当時、衛守さんは城下にはお住まいではなく、二本松藩領南部(現在の郡山・須賀川)方面にお住まいでした。
危急の事態ということで急遽城下へ駆け付けた衛守さんですが、各配属は既に決まっていて、どの隊に組み入れるかの余裕すらなかったため、銃太郎と共に少年たちの引率役になった。というのが現在の見方のようです。
少年隊の子たちは、銃太郎を隊長、衛守を副隊長と呼んでますが、実際にはこの当時の記録には、隊長や副隊長っていう役名は残っていません。
幼年兵世話係、とか、幼年兵指図役、というような役割だったようです。
まあ、そもそも「二本松少年隊」ていう名称も、当時はありませんでしたからね!
「二本松少年隊」の名称が生まれたのは戦後五十年も経ってからです。
んでもって衛守さん。
身の丈、五尺一、二寸という割と小柄な人でした。
今の単位に換算すると、153~156cm。
当時の成人男子の平均身長が、およそ160cmほどですから、それをも下回ってますね!
因みに衛守さんは戊辰の役勃発時には既婚でして、奥さまのアサさんはこの時懐妊中だったそう。
そしてもって、慶応四年七月。
幼年兵指図役に任命された衛守さん。
無論、銃太郎等と共に大壇口へ出陣します。
銃太郎が被弾したその後、衛守は銃太郎に介錯を請われて、仕方なくその首を斬り落とします。(三太刀目で漸く落としたとか)
そこで銃太郎の髻を解き、隊士の岡山篤次郎と髪を二分して運ぶことになります。(但し、これには諸説有って、衛守と篤次郎の説と、篤次郎と成田虎治という説などがあります)
そこでようやっと大隣寺付近まで逃げて来た時。
敵軍と出くわし、子供達を庇うように(と、私は思ってます)、その身に銃撃を浴びてしまいます。
無数の敵弾に全身を撃ち抜かれた衛守さんは、その場で即死。
因みに、この時奥様は懐妊中で、戦後、無事男の子を出産しています。
生まれた男の子は、父の名を継いで「衛守」と名付けられたようです。(墓誌による)
生まれてくる我が子の顔を一度も見ることなく、戦場に散った衛守さんは、現在、大隣寺の一角に静かに眠っています。
二階堂衛守、享年三十三歳。
副隊長の死によって、指示を仰ぎ従うべき存在を失った少年隊士たちは、ここから皆ばらばらに逸れ、それぞれの運命を辿ることになります。
写真:二階堂衛守墓所。(なんか立て札「二本松少年隊士」って書いてあるけどその肩書ちょっと違うと思うよ…! せめて「二本松少年隊副隊長」でお願いしたいよ…!)
【二階堂衛守・終】