木村 貫治
武衛流砲術師範。
家禄65石。
渡辺未分の二男。
木村左司馬次章の養子。
家紋:蔦
諱:貞次
生年:文政六年(年齢より逆算)
没年:明治二十三年五月二十三日
享年:六十九歳
墓所:正慶寺
法号:唯嵩院釈姓斯信居士
※備考:祖父=渡辺東岳、兄=渡辺孫市(貫)。妻=セン、後妻=ミテ。嫡子=木村銃太郎(西洋流砲術師範)、二男=彦吉。娘=たに、のぶ。
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木村銃太郎(貞信)のお父さん。
貫治さんは、元々は渡辺家の二男坊(父は渡辺未分)。
貫治さんの父・未分、兄の孫市(貫)も揃って砲術家という、砲術一家です。
貫治の祖父・渡辺東岳は算術の権威として名高く、「砲器製作算法」という著書を残し、我が子未分へ授けました。
これだよ。
この秘伝の書こそ、この血筋の砲術家としての原点でありましょうな。
貫治の兄・孫市(貫)が木村家を継ぎ、貫治は木村左司馬の養子となって、木村家を継ぐことになります。
で、弘化4年(1847年)、奥さまのセン(平山磯右衛門季明の娘)との間に銃太郎が生まれた、と。
んで嘉永3年(1850年)には銃太郎の妹で、後に岩本正勝(少年隊士岩本清次郎のお兄ちゃん)のお嫁さんになる「たに」ちゃんが生まれています。
しかしだ。
安政5年(1858年)、センさんは30歳という若さで病没してしまいます。
この時、銃太郎12歳、たに9歳でした。
というわけで、奥さんに先立たれた貫治さんは、後妻さんを貰います。
その名もミテさん。
ミテさんは元々同藩小山郡蔵に嫁いでいて、郡蔵さんとの間に男児二人(貞蔵、貞治)、女児が一人(のぶ)、ありました。
※小山郡蔵とミテの二男・小山貞治は二本松少年隊の一人。
しかし、郡蔵さんが亡くなり、ミテさんは未亡人となってしまっていたんですね。
小山家は長男の貞蔵が継ぎ、二男の貞治も小山家に残りました。
ミテさんは娘の「のぶ」を連れて、貫治と再婚したんでございまさぁ。
このミテさん、それなりに年齢は重ねてるはずなんですが、「貫治の娘たにとそう変わらないほど若い見た目だった」ようです。
美魔女か。
幕末の美魔女か……!
銃太郎というヒーローを産んだセンさんに加えて、容色の衰えを知らぬ美人後妻とは……
貫治…隅に置けない男め……(;^ν^)…
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さあ、それで話は変わりまして。
貫治も、父未文や兄孫市(貫)と同様に武衛流砲術家だったわけですが、自宅の道場で砲術塾を開いていました。
木村家は元々城からはだいぶ離れた城下三ノ丁に自宅があったんですが、貫治の砲術道場の都合からか、北条谷に住居を移しています。
この転居がいつ頃のことだったのか、いまいちハッキリ分かりません。
なので、貫治の子である銃太郎が生まれた正確な場所は、分からないんですね。
三ノ丁の家なのか、北条谷の家なのか……。
銃太郎の生家址は、そのどちらかでしょう。
「北条谷」という地名は、今はもう公的に使用されてはいませんが、一応「ここが昔の北条谷だよ!」的な石碑はあります。
【写真:旧北条谷】
この碑からさらに谷の奥へ入っていくと、木村家の跡地に出るんですがね。
よそ様の畑とか住宅とかだし、ね……。
撮るには撮っても載せていいもんだか何だか微妙なので、とりあえず北条谷入り口の石碑だけ。
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そんなわけで、貫治は自宅でも砲術を教え、二本松藩校「敬学館」での砲術教授もしていました。
※余談 : 貫治の兄さまの孫市(貫)さんも藩校で砲術教授方を務めていましたが、孫市(貫)さんは安政6(1859)年1月に亡くなっています。
孫市(貫)の没後、長男の巳之吉(勉)が家督を継ぐわけですが、この当時、巳之吉は9歳。二男の駒之助はまだ5歳でした。(巳之吉と駒之助は、銃太郎の従兄弟にあたるわけだね!)
孫市(貫)二男の駒之助は、後に銃太郎の門下生となり、戊辰戦争では銃太郎の指揮下、大壇口に布陣することになります。
自宅でも敬學館でも、日々砲術師範として弟子たちをビッシバッシ扱いていた貫治さんですが。
ものすごぉぉぉぉぉおおおおく
厳しかったらしいよ、貫治さん。
弟子が指示に従わなかったりするともう、(# ゚Д゚)プンスコ!!
弟子を( ・ω・)っ≡つ シュババババしちゃったこともあったとか。
厳しすぎるがゆえに、門弟の数も少なかったとか何とかって読んだこともあるけど、おいおいどんだけ厳しかったんだよ……(;´Д`)
生来厳格な人柄だったらしい貫治は、我が子銃太郎に対してもめちゃくちゃ厳しかったそうです。
雪の夜に銃太郎を一晩中外に放り出したこともあったとか何とか……。
( ^ω^ )さすが貫治先生、厳しいなぁ!
( ^ω^ )雪の夜に一晩じゅ……
( ^ω^ )……。
:(l|iヾω゙): おい待て死なねぇのか、それ。
軽く凍死出来る気がするんだけど、貫治先生に言わせればそんな気がするのは軟弱者の証ですか。
(まあ多分、隙を見てお母さんが匿ってくれたんだと思おう……)
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戊辰戦争の時も、貫治は大砲方を指揮して出陣。
白河戦争にも参加していますので、慶応4年の閏4月ぐらいからは自分の砲術道場も空けていたことになります。
この頃には多くの藩士が城下を離れて戦に出ていたので、恐らく城下に残った貫治の門弟の指導は、息子の銃太郎が代わりに勤めていたと思われます。
※木村貫治の門下生には、山岡栄治(大壇口の二勇士/二勇士片割れの青山助之丞は朝河八太夫の門下だよ)などがいました。二本松少年隊の中では、三浦行蔵、大桶勝十郎、岩本清次郎などが貫治の門下生だよ!
しかし白河の守備は破られ、挙句に二本松のお隣、三春藩が西軍に不戦帰順しちゃうし、二本松藩を含む東軍は、ぼっこぼこ。
二本松藩兵は、城下へ押し返されるように転戦してきます。
そして七月二十九日、二本松城下戦となりました。
この二本松城下戦の日、貫治は二番組番頭・日野大内蔵隊の大砲方として城下御両社(現在の二本松神社)に布陣。
この御両社でも、激しい戦闘が行われました。
御両社での戦闘については、日野隊の生存者であり、また当時15歳だった木滝幸三郎氏が後に回顧して語り残してます。
御両社陣営でも、やっぱり大壇口の銃太郎隊同様に、畳を重ねて防護壁代わりに用いていたみたい。
この戦で隊長・日野大内蔵が重傷を負い、日野さんを介錯したのが貫治さんだったそうです。
大壇口では嫡子・銃太郎が二階堂衛守の介錯を受け、貫治は御両社山で日野隊長を介錯――。
何とも形容し難い、親子の不思議な巡り合わせを感じます。
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戦後、貫治は大原重介(二本松藩士で砲術家。号を文林と言って画も良くする。重介は銃介と書く場合も有)に頼み、大壇口に散った息子・銃太郎の出陣姿を描いて貰いました。
文林の筆による「雲龍を描いた白い陣羽織、緋の袴を纏い、左手に銃を立てた銃太郎の姿絵」は、後に古川盛雄氏によって再度書写されるなどしています。