宮澤 平八郎



職名等:御膳番・町奉行格
家禄:150石
生年:天保5(1834)年(※享年から逆算)
没年:明治41年11月26日
享年:75歳(戊辰当時は35歳)
墓所:台運寺
法号:謙道院善誉通達居士


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もんのすごい長身(六尺二、三寸=190cm弱)で、剛腕で酒豪で、武辺の御膳番。


この時点でキャラの濃さが半端ないです宮澤先輩…!!!



藩史中には

・膂力人に絶し、武道の修練あり

・酒を嗜み、毎年7/29の落城の日には単身一瓢携えて城山に上り、豪飲淋漓(滴り落ちるほど大酒呑むこと)、四方を睥睨し、独り自ら当年磊嵬の気を醫するを常とせり

と紹介されているので、宮澤先輩の豪傑感がもうホラ、あれよ……やばいです!!(語彙どこ行った)



宮澤平八郎



画像ん中にも書いてるけど、二本松城落城後、藩主は米沢を頼って落ち延びていくんですけど、米沢が降伏すると二本松藩も完全降伏(それまでは二本松城の奪還を試みたり、城が落ちても尚戦ってた)。


で、帰藩する途中、長雨で増水した河に身を投じた藩主(長国公)を、ひょーいっと抱え上げて救出したのがこの宮澤さん。


そもそも長国公も落城寸前、家臣が散々説得しても「病躯もとより惜しまず!」って城と命運を共にする気満々で、梃子でも動かなかったところを、

重臣たちが一計を案じて

「敵襲じゃァァァアア!!」

って大芝居を打ち(まじ)、

どさくさに紛れて藩主を駕籠に詰め込み(まじ)、

殿を城から連れ出したという。(まじでそういう話)


落城前の落ち延びる時点でそんな感じだったので、長国公も胸に去来するものは数多あったものでしょう。
長国公が鉄扇橋を過ぎた辺りで河に落ちた際、宮澤先輩が河中に飛び込み、これを持ち上げて阻止。
無事に事なきを得たとのこと。




帰藩後、長国公に江戸へ出向の命が下された際にも、我らが宮澤先輩は「物持小人の平八」になりきって扈従。


※この下命のとき、従者の数を制限され、殿の御身を案じた家臣たちは、草履取りとか駕籠舁陸尺にまで化けて随行したという記述が……あってな……。

当初は従者5人って言われたのを、そこを何とか! だって御病体だもの! って食い下がって、最終的に医師看病人含め10人まで許可させt……させたんだ!

それでも従者少ないじゃん! っていうことで、小者までみんな藩士で固めた模様。

因みにこの時随行したみんな、長国公と生死を共にする覚悟であったようです。






また宮澤先輩はですね、明治10年の西南戦争にも従軍しておりまして。(もう先輩呼びで定着した)

戦地において、大刀を帯び、白馬に跨り、常に戦場を馳駆し、戦が激しくなると愈々前線にある薩摩の一将を見て、「こりゃあ善い敵だぞ」と、遣り合う気満々だったが、とうとう機会を逸してしまったのだとか。

その薩将は辺見十郎太氏であったとかどうとか。

ちょっと見てみたかったですよねぇぇぇコレェェェ……
青年誌張りの熱いバトルを繰り広げた末になんか妙に打ち解けて酒飲み友達になってそうですいません何でもないです。





あと、二本松藩史編纂の戸城傳七郎さんの叔父にあたる人でもあるようなんですけど、

明治期入って油井の学校で小使いしてた宮澤先輩が、同校に巡視に来た戸城さんに

「学校なんか見るとこねえから酒飲もうぜ!( ゚∀゚)ノ」

って絡んだ話も超好き。


まじで熱燗をなみなみに注いで

ホレッ(゚Д゚)ノ 

ってやったらしいwww ですwww
(注:ここは学校です)

この豪快さ、ほんと好きwww
今のご時世じゃ絶対出来ないやつ過ぎてwww


※戸城さんが後日「いや、あれには参った…」って言っていたとか何とか寺院物語に書いてあったんで。
戸城さんが振舞われた酒に手を付けたかどうかは定かでない。
けどたぶん押し切られて呑んだんでしょ? ねえねえ戸城先生呑んだんでしょ?? って個人的には思ってる。




【宮澤平八郎 参考】
・二本松寺院物語(p420)
・二本松藩士人名辞典(p181)
・二本松藩史(p260、374、749)
・二本松市史④(p139)
・二本松市史⑦(p15)
・二本松市史⑨(p105)