笠間 市之進
糠沢組代官、弓術指南役
※資料により「一之進」との表記も見られます
諱:褒(ひろし)
家禄:70石
家紋:違い鷹の羽
生年:文政10年(享年より逆算)
没年:慶応4年7月27日
享年:42歳
墓所:金礼寺・安洞院
法号:賢教院釋義秀居士
(備考)
妻:クラ(浦井氏)
長女:コト
長男:藤太郎褒治
二男:やすじ(漢字表記が不明ですが、御祖先の通し字をあてるなら「安治」かなぁ)(便宜上この項ではこの字で通しますが正解ご存じの方いらっしゃったらご教示頂ければ幸い)
***
御縁ありて、めっっっっっちゃ詳しくいろんなお話を聞けたり貴重オブ貴重な資料を御見せ頂けたりした御方の紹介文なので緊張してますどきどきどきどき
うちのへっぽこブログに記事載せても良かんべか??
ってお訊ねしたところ、
「書くがよい」
との御承認を頂けたのでほんっとすいませんありがとうございますいつも通りの謎テンションで書かせて頂きますウェッヘヘェェェイ(゚∀゚)(真面目にやれ)
……ごめんたぶんこの項長いわ
(はーい、今、毎度のことじゃんって言った人は正直に挙手しようか)
表題の市之進さま、藩末期当時は糠沢組の代官職に就いておられました。
代官職ってめっちゃ文官なイメージがあったんで、ばちくそ頭いいんだろうなって思ってたんですけども。
殿さまの弓術指南を御勤めになってたり、また糠沢組代官の御役に就く前には米澤藩へまで出向いて剣術指南役を務めていたという経歴があったり……
……えっ、ぜったい超強いじゃん
剣も弓も超お強いとか何その欲張りセット……
は? かっこよ……
管理人のハートも射抜いてくだs(黙れ)
え、まじで弓ってかっこよくないすか…!
なんかこう、矢を番えた姿見ただけで射抜かれた気分に…!!(はいはい落ち着け)
しかもすごいのが、米澤藩でもまた御刀を賜っていたというほどなので、かーーなり親交が深かった模様です。
さらにその御刀というのがですね。
阿呆の管理人でも知ってる名君・上杉鷹山公所用の大小であった、というので。
超見たかったッ!!!
(惜しむらくは、大小は現存せず、戦時の金属供出の尊き犠牲となってしまわれたとのこと……)
(詮方なきことながらうおおおぼくは! 戦が! 憎いよママン!)
さて、戊辰戦争の当時は糠沢村代官の職にあったわけなんですが、このとき市之進さま御年42歳。
二本松藩の職制の中で、糠沢は遠代官の部類に入りますんで、御城下ではなく代官所に併設の役宅にお暮しだったんでしょうね。
※それより以前は城下池ノ入西側に役宅があったと資料にも残ってる。二本松市史で見れる。
戦そのもののごたごたはこの際省く(おいぃぃ)として、白河戦争以後、奥羽越列藩同盟を締結した諸藩も次々帰順していき、三春藩の背盟もいよいよ濃厚になってきた頃。
藩命により、市之進さまは援軍要請の使者として米澤へ。
この人選は恐らく彼の米澤での実績が大きく関わっているものと思われる、との御見解を御子孫様よりお伺いしました。
ですよね…!
管理人もそう思います!
御刀見たかった…!!!(まだ言ってる)
いや普通に考えて、鷹山公の御物を賜るとかよっぽど懇意な間柄且つ評価を受けていないと、まあまず無いとおもうので…!
そこで藩の期待を背負い、一路米澤へと向かった市之進さま。
しかし。
遠路はるばる米沢城を訪れ、助力を求めてその城門を叩いた彼を、米澤藩は門扉を開くこともなく追い返してしまいます。
確かに、戦時。
有事真っただ中のこと。
諸藩それぞれに刻一刻と状況が変化していたものでしょう。
市之進さまが実際に米澤を訪れた日時は判然としませんが、米沢側もやむにやまれぬ事情があったのかもしれません。
でも、この時の市之進さまの心情は察して余りあるものだっただろうと思うとだいぶ辛い……
二本松藩としては、同盟国としての信頼と同時に、市之進さまご自身がこれまでに米澤との間に築いた信頼を恃んでの特使だったでしょうから。
結果助力は叶わなかったとしても、せめて話を聞くぐらい……と思ってしまいます(´;ω;`)
藩の命運を背負って向かい、成果得られず帰国となれば、待ち受ける運命はひとつ。
固く閉ざされた米沢の城門に背を向けたとき、そこで市之進さまは覚悟なさったんではなかろうか。
立ち戻って後、御妻女のクラさんに対し、
「俺は死ぬより他にない。しかしそれは敵を屠ったのちのこと」
と、伝えたのだとか。
藩の命運を左右する重大な役目であったでしょうし、それを果たせぬままの帰藩となれば、死を以てその責を負う覚悟でおられたのだろうと思うのです。
その後、市之進さまは他の家中同様に戦へとその身を投じ、糠沢塩ノ崎において敵弾に斃れることとなるのです。
(これとは別に、大玉村史に載ってる渡辺園右衛門氏による維新書留だと大稲場で戦死、とも)
慶応4年7月27日戦死、享年42歳。
生きて戻るつもりはきっとはじめからなかったものでしょうし、クラさんもその覚悟で送り出したんだろうな……って考えるとかなしくなります(´;ω;`)
この当時、ご夫妻には3人の子がありました。
長女のコトさんは15歳、
嫡男の藤太郎(褒治)さんは12歳、
二男の安治さんは9歳。
市之進さまの戦死当日、まだ役宅にて家と3人の子を守っていたクラさん。
洗面の用意のために金盥に水を汲んだところ、水面に夫の面影が鮮明に映し出されたのだとか。
これを見て不吉なものを感じたクラさんは、水を汲みなおしたのだそう。
その不吉な水鏡で、クラさんは夫の戦死を予感したといいます。
その後、クラさんは避難の為に子供たちを連れて役宅を出、大壇関門を通って城下に入ります。
家老・浅尾数馬介の邸へ行き、殿さまたちと同道して水原へ。
そこから米沢、会津、また米沢と難を逃れて険しい道程をゆくことになります。
ようやく戦が終わり、二本松に帰ったとき、クラさんたちのもとへ市之進さま戦死の報せが。
既に予感していたとはいえ、実際に戦死を知らされたときの奥方の心情を思うと泣く…。゚(゚´Д`゚)゚。
※ ここでは二男・安治さんの回顧口述を書留めた資料を軸に御紹介しましたが、御本家へ伝わるお話では結局米沢へは向かわず、福島に留まっていたともお聞きしました。
米沢へ行かずに福島で留まっていたとするものも、当時、市之進さまが米沢藩から受けた対応をクラさんが御存じであったなら、その地へ向かおうという心境には至らなかったのでしょう……
米沢から戻り、クラさんに「まずは敵を~」と宣言なさってるのを考えたら、きっと夫の受けた仕打ちを聞き知っていたと思うので。
そう考えたら、水原(現福島市)までは他のみんなと同道しても、米沢へは向かわなかったとするほうが、御妻女の決断として自然なようにも思います。
そうして戦後、クラさんと子供たちは城下桜谷の長屋に暮らしたとのことです。
戊辰から5年後。妻・クラさんは病によりこの世を去りました。
明治6年8月26日。
享年45歳。(ただし同家墓誌による。夫妻の二男・安治さんの五男・由平さんの記した書によれば、37とも。)
もうもうもう、戦死された方とその御身内のこととなると、ほんっとーーーーーに、今頃向こうで再会できているといいなあって力いっぱい祈ってしまうんですよすいませんほんと管理人の個人的感想とか要らんわって方には、っまーじですいません
ここはそういうブログですからね!
あしからず☆(`ゝω・´)v
因みに余談シリーズいっていいすか
ダメって言われてもいっちゃうんですけど
(あっこれココからが長いやつだ)
戦後、御嫡男の褒治さんは学問を志し、教員となります。
明治12年から、24年5ヶ月もの長きに亘り、掛田小学校において教育の現場に携わっていたとのこと。
当時教員になる人はそれなりに多かったわけですけど、わりと短期(数年程度)でお辞めになるケースが頗る多く、これだけ長期に亘って教育界で活躍した方はほんと珍しいです。
因みに褒治さんが勤務していた掛田小学校には浅見捨蔵氏(元の名を丹羽主膳。家老丹羽掃部助嫡男で、戊辰当時は遊撃隊長を務めた)も長年勤務しておられました。
同じ職場だったということで、どんな関りで、どんなお話されたのかなってちょっと気になりますね!
なお、褒治さんには御子がなく、弟・安治さんの三女・リウさんを養女としたことで、兄弟それぞれ御家は存続し現代へと繋がっていきます。
二本松での笠間家の祖は、笠間近右衛門(藤原安実)氏。
近右衛門安実(会津の笠間銀右衛門輝勝養子。実父は江川隼人)が明和9年9月29日、丹羽長貴公に仕え、会津から二本松へと移ってきた、ということです。(二本松市史⑤より)
この頃、安実さん30代も後半ですね。
はじめ70石にて召し抱えられ、漆木奉行となりましたが、安永9年に46歳でこの世を去っておられます。
また、安実さんには男の子がおらず娘さんがお一人おられたようですけども、この娘さんに婿を取ったそうです。
最初、直之介安村(南部権之丞の次男)を婿としたものの、ほどなく離縁となり、次に婿に迎えた与八郎褒好(奥田仁右衛門豊允の三男)をして家督が譲られたとのことです。
以後代々、糠沢組や渋川組などの代官を勤めてこられました。
あとですね、戊辰で落城同日に戦死の笠間音四郎さん(作事杖突※杖突とはなんぞやって思ってたけど、どうも測量のことをいうらしい)や、藩政時代から洋法医学を学び維新後に産科医となった笠間一庵さんなども御一族であろうと思われます(ここらへん、そこまで詳細が見えてないので付記に留めます)
後半、市之進さまからだいぶ脱線したんで、前に勢い余って描いた市之進さま置いときますね。
(管理人は度々勢い余ってやらかすのですけど、御子孫の方に喜んで頂けたので無罪にしてください)
ここに載せきれないほどいろんなお話を拝聴したのですが、どこまで載せてよいものか、そしてすべて載せようと思うと市之進さまという表題が揺らぐのでこの辺で…!
なおこのほかにももう1つ、お話伺ったら手が勝手にご夫妻と褒治さん3人の絵を描いてたので、↑の絵同様に押し付けました(すいません)
戊辰当時の箪笥さんがなんとまだ現役だとのことなので、いつか実物拝見出来たなら…!
って勝手に思っています実物見たさに忍び込んだらごめんなs(おまわりさんこいつです)
最後になりましたが、こんなへっぽこにも丁寧に接して下さり、また数々の貴重なお話や資料をご教示くださいましたこと、御子孫様へは心より感謝申し上げます。
……申し上げ足りぬ!!!! 平伏して御礼申し上げます!
ありがとうございます!
そしていつもこんな変なテンションのブログに付き合ってくださってるそこのあなた。
そんなあなたにもありがとうのハグを問答無用で贈りまs(おまわりさんこいつです)
【参考】
・二本松市史
・二本松寺院物語
・二本松藩史
・我が父の記
・霊山町史
他、笠間家御子孫様の談話より